mikomex
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蕨で出会ったクルドの歌 

他者が隣人になるとき

 

*文章はこれまでのブログ記事をまとめたものです。


 古い団地の一室に響いた声、それを聴けたこと、目の前のその風景を私は生涯忘れ得ないでしょう。

 

「Yさんのお宅にクルド人の音楽家が来るからぜひ立ち会ってください。」

 

との電話。2022年7月、出先の池袋で信号待ちをしていたときのことです。

 

【出会いとコロナ】

 

 伝統音楽を、日本で生きる子供たち世代にも受け継ぎたい、というYさんたちクルド人女性の歌と太鼓と一緒に演奏する機会は、コロナ直前2020年の初頭にありました。難民認定を受けられず不自由な立場にある在日クルド人への支援も行う、私の住まい近隣のブックカフェココシバで催した私のイベントの中でのことでした。

 

 これからも一緒に練習し、春先に行われるクルド民族の祭りネウロズでも一緒に、とのことでしたが、残念ながらコロナ禍で祭りも中止。

2020年1月@アンテナブックカフェ・ココシバ
2020年1月@アンテナブックカフェ・ココシバ

 ユーラシアンオペラとは私が主宰する音楽詩劇研究所が、2016年より海外各地でコラボレーションを主軸に創作する音楽劇。2019年までに2作品を上演しました。労も重なり、その2020年は当初より、休養、次なる創作のための準備期間と考えていました。

 

 私が小さな頃から住む埼玉県の蕨、川口周辺は、中国をはじめとしてアジア各地からの移住者がとても多く、新たなユーラシアンオペラをこの街から発信したいと思うようになっていました。その後に蔓延したコロナ自粛期間は、個人的には渡りに船の休養期間でしたが、これほど長く続くとは思いもよらぬことでした。 近隣の海外移住者と交流しながら歌を訪ね歩く、新たなユーラシアンオペラ創作の視座も失いかけていました。

 

 トルコから来たクルド人は、正規な統計はないようですが、2010年辺りから増加し、現在、約2000人がこの街に暮らしています。実は彼らの多くの故郷が、先日のシリア・トルコ大地震の被災の中心地で、その後も難を逃れて来日する人が多くなっています。「ワラビスタン」などとも呼ばれます。

 

 在日クルド人は、他のアジアからの移住者とは異なる立場にあります。トルコでの迫害を逃れるために、いったん観光ビザで日本に入国し、難民申請をするのですが、難民として認定されません。本国での差別はないと主張するトルコ政府と日本政府の国家間の良好な関係があるからです。

 

 彼らの一部は不法残留者とされますが、多くの方は「仮放免」という形で一時的に身柄を拘束されない状態にあり、いつ強制送還されるか分らない身にあります。それでも差別的な迫害の恐れから故郷に戻ることを選べません。

引き上げげてゆく男の子たちの後ろ姿
引き上げげてゆく男の子たちの後ろ姿

 その立場では保険の適用も受けられませんが、多くの男性は解体業に携わります。現在は日本で生まれた二世も多く、三世もいるとのこと。子供たちは小中学校に通えますが、中学を卒業した子供たちは、男子の場合は労働力に直結するので、高校には進学しないことも多く、女子は、宗教的にも家庭内に止まることも多いため、むしろなんとか学費を支払いながら、単位制、定時制などの高校に通わせるケースが比較的多いそうです。

 

【団地の一室での再会とセルダル・ジャーナンとの出会い】

 

 あれから2年半。電話はそのカフェの関係者の方からでした。急遽蕨に戻りました。

 

 雨上がりの蒸し暑い夏の午後、私の住む駅前のアパートから線路を越えて、アドレスを頼りに30分ほど歩いたところに、古びた団地をみつけました。四階まで階段を上がり、初めて近隣に暮らすクルド人のお宅の扉を開けました。

 

 故郷の暮らしの痕跡を留めているであろう部屋を眺める間もなく早々に、紳士的な感じのその男性、音楽家、研究者のセルダル・ジャーナンが歌いはじめました。

 

 身体と心の奥底から搾り出され、細やかに喉が震えます。初めの一節が終わらないうちにもう、なにかが琴線にふれて涙腺が緩む。

 

 ムスリムの男性とクリスチャンの女性の悲恋を歌う古い叙事詩とのこと。クルド人が暮らす地域周辺には、シリア、アルメニアなどキリスト教徒の多い土地もあります。実際にそのような出来事は多かったそうです。叙事詩だけでなく、子守唄や民謡も次々と歌ってくれました。

バグラマ(サズ)が長崎から届かず、ギターで演奏
バグラマ(サズ)が長崎から届かず、ギターで演奏

 この街に長く暮らす私ですが、この部屋の中では異邦人ともいえます。

 

「異邦人であるわたしの心に、これほど深い感情をよびおこしたというのは、どういう理由であろうか。これはきっと、あの歌い手の声のなかに、一つの民族の経験の総和よりも大きな或るもの――人間生活ほども大きく、善悪の知識ほども古い或るものに訴えることのできる素質があったからであろう」

 

 明治時代、辻で歌う、瞽女歌を目撃したラフカディオ・ハーンの文章。

 

 セルダル氏は、Yさんたちのようにトルコから避難してこの地で生活するために日本に来たのではなく、全国の大学などでクルド文化をレクチャーするために訪れていました。帰国間近でしたが、その前に小さなコンサートも行いたいということで、この5日後に私が主催することになりました。

 

 次いで、この街に暮らす3人のクルド人女性の太鼓と歌。セルダル氏のアドヴァイスを受け、苦労しながらリズムを刻み、歌詞カードを見ながら声を絞り出すように歌います。

 

 さっきまで手を叩いて歌を聴いて小さな娘は、隣室で寝そべって日本語の動画を見ています。泣き叫んでいた赤ん坊はいつの間に眠っていました。

5日後に行ったコンサートでは、エリ・リャオさんの台湾原住民の歌をはじめ音楽詩劇研究とのセッション

 

 【Denge Jine Japan 】

 

 秋の音楽詩劇研究所ユーラシアンオペラの新作に彼女たちDenge Jine Japanも参加してくれることになり、たびたびあの団地を訪ねて、練習を重ねました。

 

 クルド人はトルコの総人口の約2割をなしますが、「山岳トルコ人」と呼ばれます。つまり、トルコにはクルド人は存在しない、ということです。ゆえにクルド語の使用や民族の祭りなどは長く禁じられていました。生活には残りますが、「国語」として習うのはトルコ語です。クルド人の彼女たちが母語で歌うということは簡単ではありません。

 

 各地で方言もかなり異なるとのこと。方言の多様性は、この民族が独自の文字を持たず、教育で統制された言語を用いる必要がなかったことも意味します。これまで国を持たず各地を離散した歴史的背景も反映しているのか、苦痛を歌う悲しい内容の歌詞が多いのですが、彼女たちはみんな愛の歌だと言っていました。

 

 故郷の村で、身近だったアレウィ派の人々の踊りも教えてくれました。セマーといわれる旋回舞踊ですが、以前私がイスタンブールで観光用に行われているそれを見た時のものとは、だいぶ違いました。彼女たちはアレウィではないとのことでしたが、身近な存在だったそうです。イスラム神秘主義異端派であるアレウィは、断食の時期が違うなどさまざまな慣習の違いがあり、主流をなす他派の迫害される存在だったと言います。モスクを持たず公堂のような場所で歌や踊りがおこなわれます。

 

 苦労しながら一面太鼓(ダフ)を叩きながら歌うのとは異なり、独特の身振りが、彼女たちの身体には染み込んでいるようでした。

 

 彼女たちと一緒にコントラバスを弾きながら、その歌の繊細さや力強い深さは、クルドの人々が国をもたなかった(もてなかった)ということに関係があるのかもしれない、とも思いました。民族国家が形成されれば、伝統は体系化され、洗練されますが、かわりに生活と密着した、歌の機微や深みは失われてゆきます。世界に離散するクルド人の多くは、もちろん独立自治、願わくば国を持つことを望んでいます。そんな彼女たちは私に

 

「わたしたち おんがくべんきょうしてない。だからすうじでおんがくわかりません。カワサキさん、だからもっとおしえてください」

 

 こんなふうに言います。数字とは、拍の数を数えることです。私は、知らなかった歌を教えてもらっている立場でもありますから、「はいわかりました」とは言えませんでした。なので「一緒に練習しましょう、もっとあなたたちの歌が知りたい」と答えました。

同じ場所で彼女たちDenge Jine Japanのとコンサートを行った

 日本で盆唄や、門付け歌を聴いたハーンの言葉をまた思い出します。

 

「私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とは、どこかの場所、や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか」

 7階にある自宅の玄関の扉を開けると、視界の先に広がる空から、目の前の線路の向こうに暮らす彼女たちの歌声の端々が漂って聞こえ、身体の中、頭の中を廻りはじめます。

 

  やがてそこに、さまざまな言語の歌声が、混ざり合い、無音の音楽を響かせ、それが消えたり、また現れたりします。ロシアの、韓国の、台湾の、ウクライナの、トゥバの、トルコの、これまでにユーラシアンオペラで共演した様々な言語の声や歌。それは母語である日本語の歌によって喚起される情感や身体感覚とは別の、言葉で言い表してしまいたくないような、不思議な感覚。

 

 いつからか向こうの空を見ると反射的に、そんな声が重なって響くのです。晩秋のユーラシアンオペラの公演は、いやその先もずっと私の身体の中で、鳴りやまないのでは、と思われました。

 

【光 空 言葉】

 ボランティアの日本語教室に通うクルド人の子たちが書いてくれました。11月に行うユーラシアンオペラ新作の舞台美術などに用いる予定です。

 

 すこし掠れ、すこし巻き舌な声で、習ったから書けるよ、と自慢げに競うように。その声にも、受け継がれてきた言語の響きの痕跡。そこにいた友だちやきょうだいの名を呼ぶ声は、さらに煌めきを増して聴こえます。

 

 もともと山地や牧草地に暮らしてきた民族だからか、彼ら彼女らの母親世代に聞くと、上に広がる空、月、星などの語を生まれた子供に名付けることも、よくあるそうです。

 

 カタカナや平仮名で丁寧に署名もしてくれます。中学生の子が、自らの名前を色を使って文字アートのように描き始めると、小さな子たちが真似をし始め、いつの間にかお絵描きタイムになっていました。

 

 しかし名前入りの絵は公表することができません。万が一SNSなどで、トルコ政府や日本の入国管理局のチェック入ると、彼らや家族の身に危険が生ずる恐れもあるそうです。

 

  そうだ、クルド人女性グループも参加してくれる11月の公演では、夜空の星に呼びかけるように、彼女たちにクルド人の名前を言ってもらおう。女の子の名前が良いだろうか。一緒に演奏したり踊ったりする私たちのファーストネームもそこに織り交ぜてもらおうか,,

(後に彼女たちに尋ねた、クルド人に多い名前と意味)

<女性>

Arjin アルジン: 生命の火

Ronahi ロナヒ:イリュミネーション

Evin エビン: 愛

Rojhat ロジュハット: 日の出

viyanビヤン: 強い望み

Zeriya ゼリヤ: 冷たい風

Rojda ロジダ: 日の出

Gule ギュレ: 薔薇

<男女ともに>

Beritan ベリタン:勇気のある人

Adar アダル:高貴な王女

Roni ロニ:  新しい光

Dicle ヂチレ: 大河(チグリス川)

Zana ザナ:学者 賢人

<男性>

Renas レナス: 指導者、開拓者

Miran ミラン: 指導者 王

Renan レナン:神の光

 

 ついさっきまで懸命に書いていたのにもう飽きてしまった、10歳くらいのやんちゃそうな男の子に求められてカードゲームをしました。彼の家庭内みなではそう使っているのでしょう、私のことを人懐こく「あんた」と呼びます。お喋りしながらふと思い出しました。

 

 私はある時まで、七を「ヒチ」と言っていました。湯船から出る合図を歌うように数える母からはそう教わったのです。小学校に上がった頃、先生に「シチ」だと直されました。恥ずかしくて、もちろんその後「シチ」と言うようになりました。子供ながらなんとなく母に悪いと思い、直されたことはしばらく言いませんでした。だいぶたってからそれを伝えましたが、現在は90近くになった母は、その後もずっと「ヒチ」のまま。

 

 正しいことば、「正しい」とはなんだろう。書いてくれたクルドの子らが、子を産んだり育てたりするころ、この子たちはどこにいるのでしょう。彼らはその子らに、どんな響きを伝えるのだろう。そして語の響きのいくつかは失われているのでしょうか。

 

【「A Night The Sky was Full of Crazy Stars」】

実際の公演(2022年11月)についてはこちらをお読みください。

 

歌に込められた魂】

 

 縁もゆかりもなかった土地の人々が大事にしてきた旋律、言葉、音の揺らぎ、リズム,,,知らなかった歌に込められた魂が、「民謡」とはいかなるものかを教え、ふと、それが私の脆弱な生を、いつの間にか支えています。

 

 2023年2月のはじめ、講演活動などのため、またトルコより来日したセルダル・ジャーナン氏と録音しました。なんと七時間ほぼ歌いっぱなしで15曲近く。叙事詩デングベジュの歌唱は、喉を使った表現が多彩なゆえに、相当酷使させてしまいましたが、貴重な録音になりました。それを元に作曲して、創作してゆくつもりです。

 

 これまでに彼が歌ってくれた歌、昨年からクルドの女性たちと一緒に練習した歌も合わせると、いつの間にか50曲ほどになりました。翌日の川口リリアで行われたコンサートにも急遽参加しました(リンクに主催の上田惠利加さんの後記があります)。

 

 幸か不幸か、私は、民族や地域で歌い継がれた歌、音楽が身近な暮らしをしたことがありません。セルダル氏や日本に、近所に暮らす彼女たちの歌の言葉も慣習もわかりません。しかしこうして、たまたま出会った異文化を背景にする個人やコミュニティと、近しくなったり、遠ざかったりしながら交流を重ねて創作します。

 

 彼らの音楽は、喜怒哀楽はそれぞれ表裏のように混合し、歴史や政治とも分断されず、それでいて暮らしの中の喜びでもあります。それらの歌の魂が、画一化される反面、分断され孤立化が進む日本の都市に生きる私の死生感にも、刺激を与え続けてくれるのです。

7年前、蕨市民公園で行われていたネウロズにて
7年前、蕨市民公園で行われていたネウロズにて

 

【2023年のネウロズ

 

 クルド人も多く集まり、ともに歌い踊ったそのコンサートのたった数日後、さきのトルコ・シリア大地震が起こりました。災害のその中心地こそ、在日クルド人の多くの故郷の地でした。その苦難と哀しみの渦中、2023年3月クルドの祭ネウロズが4年ぶりに、さいたま市の秋ヶ瀬公園で開かれました。

 

 支援団体「在日クルド人と共に」には、祭りについてこう説明されています。

 

ネウローズとは新しい(NEW)日(ROZ)を意味するクルド人が最も大事にする記念日です。故国で厳しい弾圧にさらされてきたクルド人は自国で祝祭が禁止されても亡命先でネウローズの火を絶やさず守ってきました。新年を祝う音楽を流しながら日本人の参加者様も交えてクルドのダンスを楽しみます。」

 

 7年前、近所の市民公園の広場で行われていたクルド人の春祭り「ネウロズ」を初めて訪ねました。その少し前まで私は、3年ほど、トルコと日本を往復していました。いくつかの前衛的な音楽やダンスのプロジェクトで、トルコ人アーチストたちとパフォーマンスを行なっていました。しかしトルコについても、ましてクルドにつてもほとんど知りませんでした。トルコといっても私の滞在のほとんどは大都市イスタンブール。懐かしさもあり、ふと思い立ってこの祭りに出向いたのでした。

 

 あのとき少し遠くから眺めていた自分が、のちにそこで演奏することになるとは、思いもよらぬことでした。数百人もが参加し、民族衣装をまとい、輪になって独特のステップで踊り続けていました。サウンドチェックをしているとき、昨年から一緒に演奏し、音楽詩劇研究所の新作ユーラシアンオペラにも参加してくれたクルドの女性はこういっていました。

 

「日本人、誰も政治や宗教について話さない。トルコ人、クルド人は政治と宗教のことばかり喋る。子供も同じ。トルコ人、クルド人、子供も政治のことよく喋る。でも私の(日本の学校に通っている)子供たちは、喋らない、日本人と同じ。子供が政治の話するの、よくないこと、幸せじゃないかもしれない。でも大事なこと」

 

 応えようなく、ただ頷きながら聞いていたのですが、みなさまはどう思われるでしょう?

 

【祭りの後で

 

 祭りが終わって夕方、コントラバスを転がしながら帰途、自宅のすぐそばの大きな陸橋の脇にあるコンビニに缶酎ハイを買うために立ち寄りました。店の外で、いつも見かけるクルドのおじさんたちが、酒を飲みながら地べたに張り付くように腰掛けて談笑しています。

 

 反対側の蕨駅の東口のほうで、以前はよく見る風景でしたが、最近は少なくなりました。私が暮らす蕨駅の西口は、クルド人を目にすることは東口ほど多くはありません。しかし、あのおじさんたちは、毎日のように座っています。

 

 コンビニ付近に居座るクルド人男性たちは、日本人からだけでなく、日本の暮らしに馴染みながら、不自由な立場から脱却しようと積極的に行動するクルド人からも、疎まれることがあるようです。コミュニティが膨らめば、利害関係も多様化し、さまざまな分断が生じるでしょう。

 

 いまここにいる、ということはつまり、さっきまで私が演奏していたあの艶やかで晴れがましい祭りには参加していない、ということ。もしかしたら、同郷人の多いエリアから少し離れて避けるように、線路を跨いで陸橋の下に来て、酒を飲んでいるのかもしれません。いろいろと事情もあるのでしょう、その方が心が落ち着くのかもしれません。

 

 こうして数人が集まって、それぞれにスマホを持って音楽を聴きいていたりすることも多いですが、木陰にぽつねんと一人、まるでトルコの老いた吟遊詩人のように見えてしまうこともあります。その先にある大きな団地に暮らす中国やネパールの人々が、ときどき彼らを一瞥しながら通り過ぎてゆきます。

 

 近寄って「さっきまで、ここで演奏してたんです」とすこし誇らしげに、おじさんたちにスマホの写真や動画を見せたら、いったいどんな反応をされるのだろうか。

 

 そもそも高齢の方は日本語はほとんど話せないと思われますが、「俺には関係がない」と一笑に付されるかもしれませんし、懐かしそうに微笑むのかもしれません。わかりません。そんなことを思いながら、少し離れたところで、缶酎ハイを立ち飲みしました。

なみ
なみ

 

 【Canê Canê Warabi】

 

ネウロズの祭りの翌日、ブックカフェココシバで行ったコンサート(Canê Canê Warabi vol.2)では、トルコではプロの音楽家だったRさんが、解体の仕事帰りに立ち寄って一緒に演奏し、歌ってくれました。

 

「Canê Canê Warabi(ジャネジャネ蕨)」とは 

 

「Canê(ジャネ)は親愛の情を込めて誰かに呼びかけるクルド語。日本における、弦楽器サズ、トルコの吟遊詩人などの歌の第一人者Fuji、クルド伝承音楽を歌い継ぐ上田惠利加、蕨市在住でユーラシアンオペラを展開する作曲家の河崎純の三人が集まり、演奏曲やアナトリア、トルコやクルディスタンについて、たぶんゆるゆると、それぞれの視点で語り合いながら、演奏。

 

 Fujiさんは、この街に暮らすクルド人女性にサズのレッスンも行っています。アナトリア半島、地中海に及ぶトルコ地域の音楽を弾き語り、クルド語の歌も歌いますがほとんどはトルコ語です。

 

 故郷の震災で心が癒えない時期です。クルド人が多く、支援を行う方も少なくないこの街で、慮って、トルコ語で歌うことを少しためらわれていようにも感じました。しかしFujiさんが大切にしてきたトルコ語の歌も、この街で歌っていただきたいと思いました。

 

 トルコ語とクルド(クルマンジー)語はかなり異なる言語だそうです。クルド語の使用が制限されたなかで、トルコのクルド人はトルコ語で生きてきたともいえます。その言葉で感じ、思考にも用いただろうその語の響きから生まれる音楽も、やはりここで響かせたい...

 

 Rさんと、Fujiさんは、トルコの盲目の吟遊詩人アシュク・ベイゼルの名曲「黒い土」をトルコ語で歌いました。

 

土地は全ての過ちを癒す/土地は癒塗り薬が傷を和らげる/あなたは両腕をひろげわたしに道が拓かれているのを見ている/忠実な愛、それは黒い土地

 

【異郷の音】

 

 それにしても、クルドやトルコも含む、中東やアラブ圏の音楽や文化は、私には「遠い」。距離的にはもっと遠いアフリカの伝統音楽は、ある意味世界中の音楽の起源を思わせるような普遍性も感じ、アメリカの音楽からも窺い知れ、近しさを覚える事もできます。

 

  いっぽう中東やアラブやインドの音楽には、神秘的で、時に近寄りがたい美しさを感じさせるにも関わらず、自らとはもっとも遠い文化として接してきました。理解しえぬ神秘、いわゆるエキゾチズムというものでしょうか。旋律と感情とがなかなか、結びつきません。

 

 たとえば、よく書いたり話したりする例ですが、「アルプスの少女ハイジ」の中東、アラブ版というのがあって、youtube(世界各地のバージョンがあります)を見たことがあります。

 

 「口笛はなぜ..」と始まる、よく知られたあの朗らかなオープニングには、まったくその世界観にそぐわないような音楽が付けられ、しかもトルコではおじさんの声。のちのジブリの方たちが作ったあのアルプスの絵はそのままです。違和感しかありません。 

 

 私にはトルコのアーチストの友人が何人もいます。アヴァンギャルドで無国籍な音楽を共感しながら一緒に作った彼らも、それを子供の頃、違和感なく当たり前に聴いていたのでしょう。

 

【他者が隣人になるとき】

 

 演奏しながら、まるで恋焦がれているような自分の身体を、トルコ、クルドの音楽を演奏しながら感じました。

 

 遠さを感じてきたその地の人々がいま近くで暮らし、彼らの音楽を一緒に演奏します。フレットがないこの大きなコントラバスを弾きこなすために、30年ほどかけて染み込ませた手と耳の型を崩さなければなりません。西洋の平均律を基準にした型です。

 

 ドレミより微細な中東方面の音程やリズムに不慣れな私は、探り探り演奏します。そうもがいているあいだに、どんどん歌声が通り過ぎてゆきます。意味をその場で共有できないもどかしさはやはり大きいです。

 

 グローバル化と言いますが、たとえば、宗教や観衆から生ずる価値観などの違いが誤解を生むことも想像できます。音楽でもそれは同じです。良かれと思い演奏している音が、彼らの心に障ったり傷つけたりする、ありえない音であるかもしれません。

 

 だから心のどかでは、いつも恐る恐る近づいたり、遠ざかったりするように演奏しているような緊張感もあります。それはもちろんアジアでも、ロシアでも、ウクライナでも、日本でも、近しい友とて同じこと...

 

 焦がれるように近づくことは、恋愛です。私にとって、作曲も演奏も、そのエロスそのものなのだろうか...コンサートは、成就も崩壊もある、筋書きのない恋愛を晒しているような場、と言えるのかもしれません。

 

 Canê Canê Warabi、次回第三回目は少し間をおきます。上田惠利加さんが、さらにクルド音楽を学ぶためにしばらくトルコに旅立つからです。無事に帰国され、さまざまな土産話が楽しみですね。

 

 

【コラボレーションの始まり】

 

 セルダル・ジャーナンさんに録音してもらった民謡や叙事詩から、どんな音楽を作ろうか思案し始めました。

 

 これまで韓国やロシアやウクライナの民謡とのときにそうしたように、まずあえて違和感も前提に現代音楽的な抽象的な響きを五線譜に書き込んで、歌に重ねてゆきました。西洋的な書法によるその響きは、人間の心情を表すというより、自然や都市の風景のようなものです。融合、衝突するポイントを、際立たせたり切り捨てたりするのではなく、そうした響きのなかに裸の歌を屹立さえるイメージです。

 

 そうして、様式化された民謡を、風雨に晒されたり月陽に照らされたり、気分にも左右された、恣意的(即興的)なプリミティブな状態に戻します。

 

 しかし、今回は現状、なかなか上手くいきません。私自身がまだ、その歌や文化をあまりにも知らないからでしょう。ですから、異質さどうしの共存の先にある、新たな響きに確かなものが、まだ感じられないのです。

 

  現段階ではまず、より直感的に表現のプリミティブな同質性を求めることの方が良いと感じました。

 

 氏のフィールドワークしながらの研究も、現在にも息づく伝統歌の源流を求めて、それを新たに再現することかもしれません。自らの民族(民俗)芸能の原初を求める彼の歌に真正面から向き合えるのは、私自身が音や表現のプリミティブを求めたコントラバスという楽器を、より即興的に演奏することだと思いました。

 

  演奏の手掛かりに自室に篭り、セルダルさんの歌をかなり大きな音量でスピーカーから流し、数日間聴き込みました。隣りの部屋も仕事で留守がちですし、この間までバンドマン(コロナ禍でライブ活動が維持できなくなり解散したそうです)が共同生活していた下の部屋も空室。窓も開けて、外にも漏れて響きわたるエキゾチックすぎる歌声に、いったい何の謎の宗教団体が住み始めたのだろう、と訝しがらてもおかしくありません。

 

 夕方、クルドの男たちが仕事からの帰途、階下の脇を通る陸橋にもこの歌が届いている?などとも想像しました。まぁ、車の中で故郷の歌謡曲を響かせ、七階の部屋まで聞こえてくこともあるほどなので、聴こえはしないでしょうが,,,

 

 そんなふうに、15曲ほど部屋の中で録音しながらコントラバスを弾き続け、セルダルさんに音を届けました。トルコ最東南部ハッキャリ( Colemêrg))はイラン、イラク、シリア、コーカサス地域に接し、各国に分断されたクルディスタン文化のエッセンスがつまった地なのでしょう。

現在、その地も訪ねている上田恵利加さんとともに、さっそく聴いてくれ、録音しなおしたい部分などを提案してくれました。こうして、またコラボレーションが始まります。

 

 

 

【クルド歌謡の帝王と】

 

 日本クルド文化協会のワッカスさんから連絡があり、4月29日にコンサートがあるから、できれば空けておいてほしい、と。情報を確かめると

 

「クルド歌謡の帝王 ホザン・カワ緊急来日」

 

とあります。

 

 クルド歌謡は、トルコや中東各地にもありますが、クルド語で歌うことの規制もあり、シヴァン・ペルウェルやアイヌール・ドアンなどカリスマ性を持つアーチストも含め、難を逃れた地のヨーロッパから発信されることも多いです。帝王ことホザン・カワさんも、かつてクルド語で歌唱したことによりトルコ政府によって逮捕され、主にフランスやドイツで活動していると、ウィキペディアにありました。

 

 これまでレポートしてきたように、私は、セルダル・ジャーナンさんのような学術的な研究も含む、民族の文化をプリミティブなフォークロアへと遡っての口承叙事詩への関心、いっぽう自分と同じ街に暮らす、とりわけ異郷で文化を受け継ごうとする女性たちとの関わりから、クルド文化と接してきました。ですから、ホザン・カワさんのような歌謡曲は、共演したり、創作したりする対象としては、あまり想定していませんでした。

 

 もちろん聴く機会も多いです。近所のケバブ屋でそのミュージックビデオがいつも流れています。Denge Jine Japanの三人との練習で、彼女たちが参考に見せてくださる動画もよくみました。

 

 彫りの深い顔の男女が、眉をひそめながら哀感たっぷりに歌い、強烈な打ち込みビート、西洋楽器も混ざりますが、伝統楽器を使うことも多いです。あの春のネウロズでも、民謡がそのようなアレンジで大音量で流され、それとともにみんなが踊り続けました。中東、アラブ地域の伝統的な音楽では、平均律にはない音が、明確に規定された微分音は、ポピュラーミュージックにも色濃く残ります。

 

 やはり西洋のハーモニーにあてはめる難しさがあります。しかしエレキベースやキーボードにはコードの進行もあり、その響きに基づいて伝統楽器が旋律を奏でることも多いです。

 

 身についた西洋音楽理論を基に、それにあてはまらない特徴を捉えるしかありません。耳の良い音楽家には一聴瞭然かもしれませんが、私は鍵盤をたよりに音源に合わせながらそれを探ります。そうしていくつかの特徴は掴めました。インターネットで見つけた帝王の音源40曲ほどに、鍵盤で合わせ続ける。

 

 たしかにコード進行らしきものはありますが、和声音楽に必須の「ドミナントコード」が現れない。歌や、サズなどの音律にあるいくつかの音が、このコードの和音を構成にあてはめにくいことが大きな理由だと思います。

 

 ドミナント、ドメインとは「支配」や「領土」を表す言葉ですが、まさに、ある音楽の中で、影響力、支配力が強いハーモニーです。

 

 ドミナントセブンスコードは、音楽に展開するドラマの中で、緊張の場面です。たとえば、日本の演歌や歌謡曲などでは、恋愛、失意、悦び、もっとも感情が切迫した歌唱表現や歌詞がこの和音の上にあらわれることが多いです。起承転結で言えばまさに「転」の部分。そのあと、主調(いわゆるキー)和音であるトニックコードで「結」び、落ち着かせるのが、和声的音楽の通常、常道といえます。

 

 哀切感が尋常ではないクルドや、中東の歌謡曲では、高まる情感を、そのコードを用いずに、どのように表すのだろう。

 

 また、その和声が別のコードへと変化するポイントも、明確ではないように思えました。リズムの周期ではなく、歌の拍節によるところが多く、歌詞の言葉がわからない私は、それを捉えるのに苦労します。

 

 やはりこの地の音楽は、自らと遠い,,,付け焼き刃では無理。またそう痛感しながら、鍵盤で合わせたりコントラバスで試したり。「あって」いるのかどうか、それらの曲を演奏するかもわからない。キーもチューニングもわからない、でも演奏する!!

 

とりあえず、明日、12時に「ハッピーケバブ」前。

 

 これまで、コンサートでなんとか合わせながら演奏していると、「すごいですね」と言ってくださる方もいましたが、けっこう怖いのです...たとえば、故郷の歌を楽しみにしている人々を前に、まだなにもわからない私が演奏することが。なので、ついさっきまで寝床でそんな不安を反映するような夢も見ていました。

どうやら緊急来日はしたようだ
どうやら緊急来日はしたようだ

 

【なんだか海外にいるようだ】

 

  前日、その人々にとっても危険で不利すぎる法案が衆院法務委員会で可決されてしまいました。

 

 つい数日前の風景を思い出します。

 

 深夜の、近所のチェーンの中華屋に入ると隣の席に、ともに30代半ばくらいのクルド人男性と連れの日本人女性。白米にやたら大量の辣油をかけて分け合って食べていた男は、丼から箸を置いて女の腰に手を回し、スマホ片手に家族、自分の子供、自慢の車の写真とともに、厳しい顔になって片言の日本語で説明を加えながら、入管法への抗議デモや集会の映像を見せていました。女は関心があるのか、ないのかわからないような表情でそれを眺め、二人はまた、一つのジョッキの酒を飲み始めていました。

 

 周辺に暮らすクルド人の約1/5の500人ほどの来訪が見込まれる、明日のコンサートに、彼も現れるのだろうか?「帝王」も12時に、そこに現れるのだろうか?それもわかりません。

 

 濃厚すぎる歌謡の動画を時間ギリギリまでみて、サウナで昨日の酒を抜いたら、陸橋を渡ってケバブ屋へ。

 

 異郷の地で、苦労して暮らしをなじませながら自らの文化も守ろうと生きる人々と、ドタバタ必至な今日1日の出来事、演奏とを、ほんの少しだけ重ねてみることができるかもしれません。

 

 とりあえず、そこに帝王は居ませんでした。

 

 文化協会のワッカスさんもいません。まさに入管法改正(悪)の問題で、それどころではないのでしょう。先日、共演した日本に移住したばかりの、トルコで歌手をしていたRさんが迎えてくれ、スマホの翻訳ソフトにトルコ語を吹き込み、英語に訳してくれますが日本語を話すことはできません。

 

 日本人も、そこに一人もおらず、40年以上暮らすこの街で、初っ端からすでに迷い子。しかし、どうやら本日は、中東、アラブ音楽の専門家、ウードや打楽器の奏者の松尾賢さんが参加されることも知りました。正直、安堵。氏の到着を待って、本番会場に向かうのかと思いましたが、そうではないようでした。帝王のいるどこかで練習するとのことでした。

 

 事前に準備できるということだけでもひと安心したのも束の間、私のコントラバスが車に載りそうにもないとのこと。本番近くの時間に家まで迎えに行くから大丈夫、と。

 

大丈夫じゃないです!!

 

  リハーサルは不可避なので、いちおう自分で確認したいと申し出て駐車場に向かい、コントラバスを押し込む。なんとか、載りました(しかし、ビリっと木が割れるいやな音が…)!

 

「いまから足立に行きます」

 

松尾さんの楽器を運ぶのを手伝うRさん。しかし,,,
松尾さんの楽器を運ぶのを手伝うRさん。しかし,,,

 

 二人のクルド人男性と、松尾さん、私とで乗車。コントラバスに圧迫され、ぜったいに腰を痛めるような縮こまった姿勢で乗り込みました。息苦しさで、そう遠くないはずのその地がとても遠く感じます。

 

 しかし、そろそろ中間地点というところで、Rさんが自分のサズをケバブ屋に忘れたことに気付き、Uターン。クルド歌謡が鳴り響く車中、予測通りのドタバタな1日になることを、午後1時過ぎ、すでに確信しました。

 

 県境を越えて間も無く、住所によるとこの辺りなのだが、と停車。あらゆる東京っぽさ皆無の街並み。どこでもよいが、まずは車外に出たい!

 

 あっあれだ、と指さす先には、夏のような陽射し浴びて干からびてしまったかのような佇まいのフィリピンパブ。開店前のその店の奥の部屋に、スナック料理、クルドの男や、フィリピンの女や小さな子供に囲まれて、端正すぎる顔の、その人が鎮座しておりました。白を基調とした高価そうなジャージを羽織った帝王と握手を交わす。物腰は柔和だが眼光は鋭い。

 

 それも知りませんでしたが、なんと、演奏家二人も引き連れての来日。それなりに威光を放つ帝王の指示で、大ベテラン風情のサズ奏者とキーボード奏者が、店のカラオケセットのアンプや、スピーカーをのんびりと調整しています。

 

 キーボード奏者が英語で、短めな演奏をいくつかしようと。本番では、短い曲をいくつか演奏するのか、と私は理解しました。できればたくさん共演したい気持ちもありましたが、ポイントを絞ってしっかり共演できると思い、少し安心。しかしこれは、私の英語力のなさによる勘違いで、時間がないので練習は各曲短めに行おう、とのことだったのでした。それが発覚したのはステージの上でのことですが,,,

 

 

【全部同じで、全部違う】

 

「キーは全部A、

コード進行は、だいたい Am -Dm -C -G- Am です」

 

  とキーボード奏者からドイツ語まじりの英語で伝えられる。やはりドミナントコード(E7)はありません。もちろん、譜面もありません。拍子だけが伝えられ、打ち込みビートとともに練習スタート。がしかし、店のカラオケ機材が壊れてしまうのではと思えるほど、この薄暗い店の中、ハウリングおこりまくりで、なかなか曲が進みません。

 

 ソファに深く腰掛けたまま、赤いカラオケマイクを握り少しだけ歌う帝王は、たとえるなら五木ひろしか、鳥羽一郎か、いや森進一だろうか?

 

 鍵盤奏者の手の動きを目で追いながらなんとか合わせましたが、やはり、コードの変化は、私の耳には明確には聴こえません。そして、Gの部分は、Gを押さえていないしGコードにも聴こえません。このキーの場合、おそらくBとGの音は、微分音程になる可能性が高く、あてはまらない部分かもしれません。

 

 しかし、ほぉっ、そこに、クルド音楽、中東音楽の謎があるのか、なるほど、などと感心している余裕もありません。二三曲なんとかごまかしつつ演奏したところで、キーボード奏者に尋ねました。

 

 「ほんとうに、全部コード進行は同じですか?」

 

 「そうだよ。GはGディミニッシュというか、低音はいろいろ変える。本番も近くで手を見ていたら大丈夫」

 

 おそらく大丈夫ではないだろう。サズの調弦の都合もあり、同じキーが続くのはこの地の音楽の特徴でもあり、いくつかのコンサートを通じて、慣れてきましたが、それにしてもコード進行も同じとは。たとえば、ブルースもそういうものか、ブルーノートもそういうものか。うーむ、なんとか合わせるしかない!

 

強引にプラス思考総動員。

 

 ふだん、各曲の歌詞の内容、曲調を表すキーやコード進行を鑑み、コンサート全体を俯瞰して構成することは、私にとっては当たり前のことです。舞台演出をすることもある自分の得意分野だという自負もあります。しかし、それは観客と演者を分ける、演者の発想にすぎないともいえます。みなで歌い踊る、たとえば「祭り」で、そのようなことはたいして意味をなさないでしょう(それもここのあとのコンサートで実感)。

 

 そういえば、昨夏、私が催したセルダルさんや、Denge Jine Japanの小さなコンサート、あるいはネウロズの祭りでも、コンサートの後、ノリノリな音楽をかけながらみなで歌い踊ることの方がむしろ主であるような盛り上がり方でしたし、その時間の方が長かったです。

 

 それは、これまで私が考えていた「音楽」や「コンサート」のあり方とは、正反対ともいえる姿です。演奏は、その後みなが歌い踊るためのきっかけに過ぎず、コンサートの方がむしろ前座、というか。いや、それもみんな含めて、そのような空間や出来事じたいを「音楽」というのだろうか、などと思いました。

 

【フィリピンパブでの葛藤】

 

 それでも、探り探りおぼつかない手で弾く私は、期待外れでがっかりさせているようにも思い、じょじょに心が縮こまってゆきます。

 

 今日、コンサートに来るクルド人の人たちは、日本語がわからないままに日本にきて、不安定な言語環境で相互理解の困難に打ちひしがれる場面だって無数に経験していることでしょう。不自由に制限される立場で日常を逞しく生きる人々を見習わなくちゃ、などと奮い立たせ、なるべく不安を表に出さずに堂々と。

 

 しかし、強制送還されるかもしれない立場の人々の境遇に結びつけ、安易な精神論で乗り切ろうとしている自分は失礼で滑稽でもあります。今日は友好の証にと、控え目にも張り切って、クルディスタンの旗の色、赤いTシャツに緑の上着、黄色い靴下も履いてきましたが,,,

 

 フィリピン人の女主人がガラス張りの冷蔵庫を指さして、日本語で、

 

 「あそこにあるもの好きに飲んでください」

 

 私をよく知る人なら、アルコールドリンクを選ぶことを容易に想像できましょうが、手にとったのは赤と青の「エナジードリンク」の缶。あはは。

 

 歌手のRさんも、少し縮こまってしまったようです。せっかくサズも取りに帰り、歌う気満々だったのに、翻訳アプリを使って松尾さんがトルコ語で尋ねると、スマホで翻訳された日本語で「きょう私は、演奏しないと思う」と寂しげ。たしか「指導者」を意味する名をもつ小柄な彼が気の毒になりました。

 

【いざ会場へ】

 

 店の女主人の夫であるクルド人男性が、蕨方向へ戻りつつ車で会場まで送ってくれました。家では、「トルコ語、クルド語、タガログ語、英語、日本語」全部よくわからない言葉を総動員してコミュニケーションしていると言い、妻とのメッセージのやりとりを見せてくれましたが、その通りでした。さらに実例をと、わざわざLINEのビデオ通話をし、「Love you」といいながらスマホにキスしますが、眠たそうな彼女は、不機嫌に軽く頷くのみで、一瞬で通話終了。

 

 改めて彼の顔を見て、思い出しました。このカップルとは、ちょうどコロナウィルスが蔓延する直前、家のすぐそばの焼鳥屋で会ったことがあるのです。外国人が、居酒屋に客としている、しかも別国人同士がいることが珍しいことでした。どちらかがどちらかを口説いているようでした。当時、海外でコラボレーションを続けたユーラシアンオペラを、今度は自分が暮らす街からと思い始めていた矢先で、居酒屋、食材店などで、さまざまな地からの移住者や留学生から、「歌の記憶」を尋ねるインタビューをしていたのでした。

 

 私は日本に来たときに歌手をしていたのですと、文字通り胸を張る50代にも見えるセクシーな女性は、フィリピンの第二国歌ともいわれる、タガログ語の歌を教えてくれたのでした。のちに、やはりそうやって、この街のクルド人の女子高生が教えてくれた、「クルドの娘」とともに、その曲もコントラバスで演奏しました。

 

近所で訪ね歩いたアジア各地の曲をコントラバス で演奏した

 

 さて、会場入りの時間は、開場時間と同じ。5,600人くらいの小ホール。

 

 クルドの老若男女、赤ちゃん、ぞくぞくと集まる中で、サウンドチェック。

 

 まぁ、これも通常のコンサートではありえないことです。キーボード奏者が自分の手を見ながら、とさっき言っていましたが、手など見えない位置に私の機材がセッティングされていました。若干の期待はしていたものの、もちろん、想定内。そのほか足りない機材も続出ですが、本番です。

 

 ステージの上に演奏家が現れ、舞台袖からコンサート開始を窺っていたら、促され、どうやらはじめから演奏するということ、らしい。

 

 そうしてステージに上がってから、次の曲は何が来るのかわからないまま2時間、何曲くらい演奏したのかも覚えていないほど、必死に弾き続けるほかありませんでした。

 

 温もりのある優しくて力強い歌唱はもちろん、コール&レスポンス、アジテーション、スーツに着替えた帝王のパフォーマンスは圧巻でした。

 

 終演予定時間近く、腕時計を指して合図され、その曲を歌い終わった帝王は舞台から消えました。これで終わりかと思ったら、「今日は私は出ないようです」と肩を落としていたRさんが登場。良かった。先日のネウロズの祭りと翌日のイベントで3,4曲共演しただけですが、なんだかとても安心感があるのが不思議です。

 

 再び帝王登場し熱狂してからが長かった。この最後の一曲だけが長調で、Cのキーでした。コードが変化していたのかも、もはやわからず、半ば朦朧と倒れそうになりながらC音を演奏し続ける。

 

 演奏はままなりませんが、みなが歌い踊っている姿を目の前に、いつのまにかさまざまな葛藤は消えてゆきます。コンサートが終了すると、ほぼ脱水状態かつ放心状態でした。

 

 

 

演奏家のふたり
演奏家のふたり

【友だちは俺たちだけ,,,】

 

  打ち上げのために戻ってきたケバブ屋には40人ほど、しばらくすると、ほぼクルド人、そしてすべて男性。なにかのイベントで見かけた方、街中で見かけ方もいます。

 

 子育てをし、宗教的にも外で働くことが少なく、街の日常に馴染みながら暮らす女性や老人には比較的、親近感を覚えやすいです。いっぽう、仕事と家庭を往復する男性たちとの交流は、正直なところハードルが高いと思っています。だからこそ、これまで距離も感じていた、クルドの男たちの輪の中に存在できたことが嬉しかったです。

 

  日本語ができる人が、次々とたくさんの郷土料理の説明をしてくれます。それらをほうばり、ビールを飲みつづけ、クルド語ともトルコ語とも判然もつかぬまま、異国の言葉を浴びていました。そうしてほとんど黙っていましたが、私よりは若いであろうおじさんに、

 

 「ぼくは、みなさんよりずっと長く、子供の頃からこの街に暮らしています。残念なことに友だちはあまりいません。だから、こうして、ここ、この場に一緒ににいられることが、とても嬉しいです

 

 と言うと、彼は少しぶっきらぼうに、

 

 「いいんだよ友だちは、俺たちだけでも」

 

  と言ってからにこりと微笑む。嬉しさが滲みましたが、その言葉の意味を深く掘り下げたくありませんでした。というよりも、ただ、偶然と音楽とがこうして繋がったことの安堵に包まれたかったのです。

 

 午前0時ごろ、ホザン・カワさんが民族の連帯を確認し合う挨拶(あとから通訳してもらいました)を述べ始めると、男たちがみな、厳しい表情になって立ち上がります。ああ、私はここでどうすれば良いのだろうと少し躊躇しながら、遅れて立ち上がりました。

私より2歳年上の帝王と
私より2歳年上の帝王と

 

【祭りからの帰り道で】

 

  お開きとなり、店外に出て、帝王や二人のミュージシャン、みなさんと握手をして別れ、駅を越えて家路につきます。よく思うことをまた思います。

 

 民俗学者の柳田國男が「祭り」というものを説明するのに語った内容です。明治時代以降、祭りに「見学者」が現れ始めたという話です。そのような現象を、ひとつの近代的な事象として説明できるでしょう。祭りというものは、それ以前は基本的に見学者という存在はなく、ただその出来事への参加があるだけだった、ということです。

 

  幼少の頃から私はすでに「見学者」でした。

 

 歌うのも踊るのも好きなのに、人の中でそれをすることができない。そんなふうに、人見知りで、その群れに入ることに恥じらいを感じる自意識過剰な子供はいつの時代にだっていたとは思います。また、そういう人もいるよねと、その存在も辛うじて許されるのが、近代的個人主義のありがたさでもあります。そうして自然に人前で歌い踊ることができない私のような人間は、舞台という公的な場を与えられてようやくそれができるのでしょう。

 

 大人になれば、観察者、傍観者という存在と自意識に虚しさも感じます。ふと、芸能者の末端にいる私は、「まれびと」の一種かもしれない、と思いました。「まれびと」はやはり民俗学者、国文学者の折口信夫のいう外来神、芸能者の起源として呼ぶ来訪者です。

 

 私には、この街に暮らすクルドの人々も「外来神=まれびと(客人)」にも思えます。反対に、その彼らにとって今日の自分は、「まれびと」のようなものであるのかもしれません。半ば我を失ってコントラバスを掻きむしりながらステージの上で、客席で踊り、旗を振り熱狂する人々見つめている私を、そのはしくれであると自己規定することもできるのかも知れません。

 

 まれびと同士が友人となることもありうるのかもしれません。しかし、私も彼らも「まれびと」のようにこの街から去ってゆくことはできません。いや、私にはできても、彼らにはできないのです。

 

 共生といえば、まず他者を受け入れる立場を考えてしまいます。しかし男たちの輪の中で、私は少しだけ「受け入れてもらった」ように思えました。それが、いわゆる友情なのか、まれびと同士の友情なのか、よくわかりません。

 

  それにしても、私の方が受け入れてもらう側の立場と思っているからなのか、あるいは、彼らに不当な法の規制を課す国家の一員であることの申し訳なさからなのか、単なる性格か、日本語特有ともいえる謙譲語を用いて必要以上に言葉遣いが丁寧になってしまいます。もうちょっとフランクにありたいものです。

 

  日本語を少し話す老夫が、

 

「あなたは、いつ、どこでそんなに勉強したのですか?ほんとうに凄いです」と、だいぶ時間を置いて二度同じ質問しました。

 

 気の利いた答えもできず、二回とも、正直に通り一ぺんに

 

「いえいえ、全然できません。これからもっと勉強させていただきます」そう答えると、何も語らず目元を緩め、ただ微笑むばかりです。

 

  振り返るとその答えは「いま、ここ」なのでしょう。(続く)

 

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