沖縄フィールドワーク

20241

〜極私的原風景と重ねながら〜

 

第四章【石垣島篇】

 

【八重山に聴く】

 

まもなく船頭の前方に石垣島が視界に現れた。今夜は、八重山民謡の第一人者、大工哲弘さんたちのコンサートに伺うことになっている。港が迫ってきた。与那国とは比較にならぬほど都会を感じる。

 

到着して広い駐車場に降り、そこで彼女と別れた。ここに戻った彼女はどんな暮らしぶりなのだろう。遠ざかって見えなくなる辺りで、また振り返って我々に手を振った。歌の島と言われるこの地で、私たちは何に出会えるのだろうか。

八重山文化の中核をなす石垣島では、二泊三日の滞在で山海の要地や資料館、博物館を巡った。それに忙しく、土地の料理屋に行くこともなかった。だから与那国のように、心の深くに一つ一つ刻まれるような体験は、少なかった。だが日程の中間に、石垣を据えたのは、プロデューサーの渡辺氏氏のまさに慧眼である。

 

石垣島は、本島と、最もそこから遠い与那国島との中間地点である。両極を経たうえでのこの地への訪問は、琉球王朝文化の影響や、仏教や神道など日本文化伝搬の流れを確認することを可能にした。

 

とくに平地では、神社や寺のような社のある御嶽をよくみかけた。その建物の壁の中央に、小さな丸い穴が空いていた。それを覗くと、すぐその先に、社の壁に隠れた、聖石とこんもりと枝が絡み合う大樹がある。

人々はときに強要されるように受け入れた他文化や制度と、どのように折り合って生きてきたのだろう。それは私たちの創作テーマと大いに関わることである。

 

石垣そのものは、たった丸二日では掴みどころを得なかった。しかし今回のフィールドワーク全体の印象としては、結局この島に集約されていた、ともいえるのだ。

民謡にもそれは言える。本島の歌と比べると素朴であり、与那国の古謡や土着の祭儀に比べれば洗練されている。

 

大工哲弘さんたちのコンサートは、「安里屋ユンタ」、「てぃんさぐぬ」など、のちの「沖縄民謡」の原曲の宝庫となる八重山唄のエッセンスにあふれていた。

 

氏の歌声から、さっき資料館で見た「八重山みんさー」の繊細さと素朴さを併せ持つ肌触りを思い出す。「いつ(五つ)の世(四つ)までも、末永く」と願いを込めて、五つのマス目と四つのマス目を織り込んだ木綿の絣(かすり)の織物だ。私たちは会場の最前列で、その声を浴びることができた。中学生の頃、何度も読み返したあの雑誌で見た、憧れの唄者を目の前にして、感慨深かった。

 

 

【三世代の歌】

 

とはいえ、コンサート会場で聴くのと、それ以外で出会う歌はやはり違う。

やはり偶然の出会いだった。

 

翌朝、唄者を多く輩出する、海沿いの白保集落を散策した。昨夜の旋律が頭に残るまま、人懐こい猫とじゃれあいながら、ぶらぶらと街路を歩いた。浜の入り口となる木陰から、「美ら海」そのもののようなアオサンゴが群生する海が広がるのが見える。

 

波音に混ざって三線と唄声が聞こえてきた。ほかに誰もいない白砂の浜辺の岩に腰かける二人の姿は、背中越しからも、いかにも手ほどきする師弟、あるいは親子のようだ。できすぎた風景に一瞬戸惑ったが、邪魔を承知で近寄って尋ねた。

 

親子だった。昨夜のコンサートで我々の姿を見たという父親は、大工さん門下の方だった。息子は高校生だというが、もっと年下に見える、日に灼けた可愛らしい丸顔だった。渡辺氏が少年に「将来も歌を続けるのですか?」と聞くと、「大工さんのようになりたいです」と純朴に答えた。

 島の住人かと思ったが、父は東京に、息子はたしか山陰に暮らし、事情があるのか苗字も違うのだそうだ。父親は私と同い年だった。白髪の多い私と違い、髪も黒々として若々しいのに、なんだか私よりとても大人に思えた。

 

昨夜のコンサートを観に、この地を訪ねたそうだ。一曲、聴かせていただけないかと乞うと、親子は顔を見合わせた。調弦と歌との境はなく「とぅばらま」の演奏が始まった。八重山民謡のシンボルのように各地で歌われる恋の歌。

 

月の美しいのは十日三日の月

乙女の美しいのは十七歳の頃

月と太陽とは同じ道を通られる
貴方と私とも一つ道でありますように

山を見れば八重山を思い出し

海を見れば生まれ島を思い出す

 

父と息子が交互に唄いあったこの唄は、たとえばこのような詞で歌い継がれた。しかし野仕事のなかで歌詞も即興で作られてきた。メロディに乗せ、自由に言葉を伝え合う。親子がどんな風に掛け合っていたのかは、私にはわからない。

 

歌い終えた父親が、近くの公民館で行われている日曜市で、もうすぐ民謡が聞けますよ、と誘ってくれた。親子はまた練習を始め、私たちは先にそこに向かった。

 

その日は食堂となっていた図書室で、しばらく地誌をめくりながら、民謡ショーが始まるのを待っていた。向かいの席で、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる老父がいた。背が高く、たまにしか体を動かさないので、かえって気になっていた。遅れて到着したばかりの、さっきの父親が近寄って「あさといさむさん、ですか」と尋ねた。

 

名を聞いてすぐに、一枚の写真思い出した。三線を抱えて直立した精悍な顔つきの体格の良い男と、目の前に佇んでいた痩身の老父とが重なった。伝説的唄者である。

 

「コロナがあって歌わなくなって、体も弱り、今はもう歌っていません」

 

その老父は答えた。歌が始まる前にすでに席を立ち、出口付近に腰掛けて、バザーで買い物する介添者を待っているようだった。

ショーが始まって若い娘が三線を刻んで太鼓と共に歌い始める。すると中庭を囲む客席から、拍を刻む手拍子が起こる。もしや、お歌いになられるかと淡い期待をもちながら氏の方を見ると、右手と左手を交互に上下入れ替え、観客の半分くらいのテンポで拍を刻んでいだ。その音のない揉み手に、波の柔らかな律動を感じる。これが唄に内包されたリズムだろうか。思わず私は、少し離れたところにいたチョン・ウォンギ氏に目合図した。安里勇、歌わずともその居住まいは、唄者そのものだった。

 

19451220日、沖縄八重山黒島生まれ。中学を卒業後、第1期集団就職の一人として大阪へ渡り、様々な仕事に就いた。その後、八重山民謡の修行を積み、1996年『海人八重山情歌』でデビュー。続いて『潮騒』(1999)『浮遊人』(2001)をリリース。海人(うみんちゅ)として毎日海に出るかたわら、石垣市美崎町、島唄ライブハウス「安里屋」を12年間経営、毎日ステージを務める。20116月体調を崩し閉店。その後、ライブ活動を経て20121月に島唄と島魚の店「安里屋」を開店。」

 

 公民館を出て、レンタカーで山海の要地をまた忙しく巡る。降り立った熱帯植物園のような場所の麓に小さな作業場があり、むせるような甘さを周囲に漂わせていた。

ああ、Yの家の匂いだ。奄美では18世紀半ばより、薩摩藩より黒糖で貢納が貸され、「黒糖地獄」とも言われた。沖縄では「ウージ」八重山では「シッチャ」というサトウキビ畑が、この地に現在のように広まったのは第二次大戦以後のことだという。

 

八重山諸島では、琉球王府より明治期になるまで、価値の下落を抑えるため生産が制限され、効率の悪い他作物や上布で納税した。悪名高きこの人頭税の苦役労働は、無数の麗しき唄の泉となった。

 

 工場の脇道を過ぎると、銀の穂をつけてさらに高くなったサトウキビが、視界を遮る。もうすぐ収穫期だが誰もおらず、風に揺れて音をたてるばかりだ。そのざわめきに包まれていると、また小道の遠くの方からYNが小走りに、その風景の中へと近づいてくる。

 

終章:精霊と子どもたち

 

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 古謡を訪ねる琉球への旅と極私的な原風景とを重ねて随想

 

【序章】 東アジア海洋文明への眼差し

第一【沖縄本島篇】

第二【与那国島篇】

第三【極私的原風景 1980埼玉】

第四章【石垣島篇】

【終章】精霊と子どもたち

済州島リサーチ 2023年8月

 

 

 一万八千の神々が宿る韓国の火山島に民謡の源流を求める旅の報告

 

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