沖縄フィールドワーク

20241

〜極私的原風景と重ねながら〜

 

終章:精霊と子どもたち

 

【慰霊塔にて】

 

再び戻ってきた那覇では、県立美術館で、舞台美術を依頼している照屋勇賢さんの展覧会をみたり、市立劇場で打ち合わせを行ったり、沖縄の伝説の作曲家金井喜久子の生涯をとりあげて演じる宮城さつきさんたちにあったりと、また忙しかった。

 

 最終日は、先の飛行機でソウルへ戻るチョン・ウォンキ氏たっての願いで、糸満の平和祈念公園の朝鮮人慰霊塔を訪ねた。済州島の四・三平和公園を思い出す。動乱で虐殺された人々の名を刻む無数の碑は、晩夏の驟雨に打たれ、我々もびしょ濡れで巡った。

今回の旅は、天気に恵まれて新春でも半袖で通していたが、今日は薄寒く、空も暗い。海の見える広大な敷地に、出身県、国ごとに、沖縄戦の戦没者の名が刻まれた慰霊塔群が広がる。岩手県からの遺族の一団が、小雨のなか線香を焚き、それぞれの慰霊碑に手を合わせていた。

 

じょじょに強まる雨の中、無数の碑の間を歩いていると、他県に比べ、かなり北海道出身者が多いのに気付く。調べると、碑に名を刻まれる沖縄戦の犠牲者24万人のうち、県外出身者は78千人。その1/4近くが北海道出身者だと、その理由とともに知った(https://www.hokkaido-np.co.jp/article/715919/)。その中には、日本全国から集まった開拓者や、先住民アイヌ出身者もいたのだろう。

 

 モノレールに乗って荷を預けたホテルへと一旦戻り、そのまま那覇空港へと向かう。

 

「ちょん ちょん ちょん ちょん キジムナーが ちょーん ちょん」

 

子供の姿をして現れる精霊を歌う、新民謡の旋律をアレンジした発車のチャイム音が、緩慢にホームに響いている。

 

過去の記憶と現在が乱反射しながら重なる、時空を超えるような旅が終わる。たった一週間ほどの滞在で、何がわかるわけでもない。生と死とがずっと対話し続けているようなこの地から、それがない東京、埼玉へと戻る。だがその中継地、空虚なエリアであるはずの空港という場所に、なぜか心の落ち着きを感じる。

【精霊と子どもたち】

 

帰りの飛行機で楽譜を確認しながら、数日後に行われるシヴァン・ペルウェルとの共演の準備を始めた。世界に離散して国を持たぬ最大の民族クルド のカリスマだ。私の住む蕨や川口近辺には、トルコか逃れてきたクルド人が3000人ほど暮らしている。コンサートにもそのうち1000人ほどの在日クルド人の来客が予想される。

 

 私はここ二年ほど、近辺に暮らすその人々との演奏を通じ、生と歌とが直結する音楽のありようを、学び直している。だから済州島や沖縄で、古い歌を訪ね歩いているときも、 クルドの歌のことがつねに頭の中にあった。埼玉に戻り、数日間クルド民謡漬けの日々が続く。

 

ここで生まれた移民二世の子供も多い。親たちの故郷、トルコ南東部の街や、アララトの麓の遊牧の生活は知らず、私が育ったのと同じここが、その子らにとって、故郷になる。彼らはここで、どんな歌を歌い継ぐのだろう。あっという間に大きくなるのだろうな。そこから日本にも、トルコにも、クルド民謡でもない、新しい「民謡」が生まれるのだろうか。彼らはその頃、どこにいるのだろう

 私は今なお、その街に暮らし続けている。Yの家も、Nの家も、もうとっくに取り壊され、別の建物になった。買い物がてらに昼夜を問わず散歩することも多い。そのとき彼らを、他の同級生たちと同じように、思い浮かべることも、以前から少なくない。

 

卒業後も会う機会のあるYは当時と現在の顔の両方が思い浮かぶが、Nは少年のままだ。そんな景色に、近所のクルド人や中国人の幼子たちの姿や声が重なってくる。

 

彼らは精霊、ガジュマルなどの古木に棲まう精霊だったのでは、沖縄から帰ってからYNを想うと、いかにもそう思えてしまう。

 

「沖縄の子供たちの間では、かつて、キジムナーの足跡を見ると言う遊びがあったそうです。その方法は、薄暗く静かな場所で円を描き、小麦粉等の白い粉を撒き、円の中心に火のついた線香やローソクを立てて呪文を唱えて隠れます。20数えて戻ると、キジムナーの足跡がついているのだと言います 」

 

子供のような姿で現れるこの妖怪について調べると、wikiペディアでこのような記述を見つけた。

 

私の記憶に現れる子どもたちはみな、精霊かもしれない。キジムナーと友達になった人間がキジムナーを裏切ると、さまざまな不幸が訪れるそうである。

【来訪神と守り神】

 

先日、今年89歳になる、すぐそばに住む母が、転んで怪我をしたので、買い物に付き添った。

 

近所のスーパーは、かつて私も過ごした実家であるマンションから一本道を隔て、3分ほど真っすぐに歩いたところにある。老いた母の足では10分はかかる。山梨の山村で育ち、静岡、東京を経てこの街に来て50年近く、この道を母はいったい何度往復したのだろう。

 

帰途、調剤薬局に立ち寄る。受付の2人の女性は馴染みのようだ。鞄から処方箋と薬手帳を出した母は、今スーパーで買ってきた蜜柑を袋から3個取り出して渡していた。

 

「このあいだはもう一人いたでしょう、奥にいるのでしょう」

 

あとで私が分けて貰うはずだったものだ。喋りが長そうなので、外に出て裏の路地で一服した。

 

すぐそこが、Nの家があった場所だ。私も、散歩中そこを通り過ぎることはよくあり、沖縄で彼を思い出したからといって、とくに感慨をいだくこともない。

 

なんとなく、彼との会話の中に、方言のような不思議な言葉があっただろうか、と記憶を手繰り寄せたがまるで甦らない。

 

そこを離れようとすると唐突に思い出した。彼のちょっと特徴のある笑い声とともに、口を縦にしたおどけたNの顔だ。あれは、西表の来訪神ではなかったか?遠方から現れて人を拐かそうと笑わす、あの道化のような「まれびと」、オホホだ。

 

「イリ、君のあれは、オホホだったの?」

 

精算が終わって表に出た母に歩きながら尋ねてみる。Nの母親から電話があったことを覚えているかと。40年近く前のそのことを、母はよく覚えていた。

 

こうして、ある土地にいちど関わり始めると私の場合は、幼少にまで遡った淡い記憶の中の風景が、現在に強く蘇ってくることが多い。

そういえば、女の子なので一緒に遊んだ記憶はないが、赤嶺という苗字の子がいた。小学校近くの、オレンジっぽい煉瓦と白壁の、建てられて間もない洋風の家は目立った。われわれ男児たちは、それを横目に通り過ぎていたが、三姉妹が仲良さそうに遊ぶ庭先の門に、見慣れぬ置物があった。それが琉球の守り神だとわかったのは、いつのことだったろう。

 

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 古謡を訪ねる琉球への旅と極私的な原風景とを重ねて随想

 

【序章】 東アジア海洋文明への眼差し

第一【沖縄本島篇】

第二【与那国島篇】

第三【極私的原風景 1980埼玉】

第四章【石垣島篇】

【終章】精霊と子どもたち

済州島リサーチ 2023年8月

 

 

 一万八千の神々が宿る韓国の火山島に民謡の源流を求める旅の報告

 

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