沖縄フィールドワーク

20241

〜極私的原風景と重ねながら〜

 

第三章【極私的原風景 1980埼玉】

 

フェリーに乗るまで束の間の散策をした。日本最西端の日の出は遅い。7時過ぎ、音立てぬように玄関の扉を開けて一人表に出る。仄暗い夜明け時に囀り始めた小鳥たちの声に囲まれながら、ヒト気のない集落に出る。

 

そこを抜けて、密生する濃緑に囲まれた小道に出たあたりで、微かな笑声を聴いた。まだ声変わりせぬ少し掠れた子供の声だ。40年前のNYの存在がじょじょに重なってゆき、気がつくと一つの情景となっていた。(前章つづき)

 

 Yは私が現在も唯一付き合いがある小学校時代の幼馴染みだ。長電話中に、ときどき悩みを漏らすと、助言を与えてくれる親友でもある。

 

とはいえコロナ禍の少し前に会ったのが最後。大人になってからも電話のやりとりは断続的にあったが、近年、連絡は途絶えている。20代の頃、事情があって留置所から出戻る途上の彼に、1万円を貸したこともあった。

 

だがその後はまた、何らかで金を稼いでいるようで、会う時はいつも酒を奢ってくれた。子供の頃から悪知恵も働いたが、まぁ頭が良いのである。

 

もう一人のNとは、小学校卒業後は一度も会う機会はなかった。中学入学後にどこかに転居した後の行方は、同級生たちも知らない。

 

あるひょうきん者は、冗談まじりに彼の噂話をし、みなの笑いを誘っていた。オウム真理教の報道が盛んだった頃だ。それによると、あの「サティアン」を映すテレビ報道で、「なんとかヘッド」を装着したNがいたぞ、と。

 

私が今も暮らす、埼玉県南部の蕨市で1980年代半ばくらいの話だ。ほどなくJRになる国鉄の駅周辺は、小さな繁華街もありマンションも続々と建って私もその一つに育った。

 

当時の都心のベッドタウンは、地方からの移住者の第一世代が多く、各出身地の方言にも囲まれ、今思い返すと多様なローカル色が溢れていた。

 

いっぽう少し離れると、区画未整理の路地と小さな空き地や原っぱが点在する郊外で、私たちが通った小学校もそこにあった。その地域は、古くからの住人と土建等の地元産業に携わる人が多かった。

Yの場合-重なり合う原風景】

 

Yの暮らす家は、その中程に位置していた。彼の母親は奄美大島の出身だと聞いた。私は父が海外出張や単身赴任も多かったこともあり、その地を地図で探したり調べたり、野球少年になるまで地理への関心が強く、毎年「少年朝日年鑑」などという分厚い本を買ってもらい愛読した。

 

奄美が鹿児島県とは知らなかったが、沖縄の一部だと認識していた。

 

典型的なガキ大将のYは、南方の出自を思わせる色黒の少年だった。顔のパーツがはっきりとした丸顔で、治療せず欠けたままの歯が悪戯っぽく、いかにもヤンチャだった。

 

下階、上階それぞれに玄関がある、路地の入り口の古びた木造の二階屋に暮らしていた。といっても各階に一間と、納戸のような小部屋がついたバラックだ。一階には「ばあちゃん」と二人暮らしの、Yが「ねえちゃん」と呼ぶ、10代半ばと思しき大人びた少女がいたが、制服姿の見覚えはない。彼が得意げに話すアイドルのゴシップや性的な知識は、彼女から仕入れたに違いない。実姉ではなく従姉妹で、彼女の両親は店の経営に忙しく、それがある隣町の繁華街、西川口駅近くに暮らし、時々ここに戻るとのことだった。

 

Yの両親もその家で見かけることがなく、父方の祖母が階を往復して面倒を見ていた。

 

がらんがらんと錆びついたステンレスの階段を音を立てて昇り、鍵をかけていない玄関の扉を開けるといつも、ぷーんと、砂糖がすえたような匂いがした。嗅ぎ慣れぬその匂いが、少し嫌だった。

 

何度も遊びに行ったが、玄関を開けてすぐの茶の間の電灯がついているのを、見たことがなかった。暗がりの奥に、部屋のサイズに似つかわしくない大きな仏壇があり、その上に遺影と思しき初老の男の写真があった。そこを横切って入る納戸が、彼が寝起きする場所だ。陽灼けしたカーテンを小窓に吊るした小部屋は、悪さを企むちょっとした「アジト」のようだった。

 

Yによると、彼が生まれるずっと前に死んだ祖父は、東大卒の弁護士だった。だから、私はあの遺影がそのおじいちゃんかと思った。東大卒や弁護士ときくと、リッチな暮らしを想像できたが、それとはあまりに遠い暮らしぶりだった。

 

世間の情報に少しませていた私はいつか、写真の男は、有名な仏教系新興宗教の教祖のような人物だと知った。玄関の外に積まれた古新聞も、その機関紙だとわかった。甘い匂いの元は、黒糖菓子だとわかった。

 

奄美大島出身の母親を見たのは、小学校の入学式の一度きりだ。Yとは幼稚園も同じだった。薄茶の背広を着させられた彼がじっとしていられないのが、色褪せた写真からもよくわかる。

 

母親と二人きりで映る写真が、なぜか私の実家のアルバムに挟み込まれていた。顔のパーツは彼同様に大造りで、体型は少しふくよかだ。化粧が濃いせいか色白だが、眼鏡を掛け派手でもない。昼間は家のすぐそばの雑居ビルにある「互助会」で働いていると聞いたが、それならなぜ、夕御飯時になっても姿を見ないのかと思った。

 

今思い出した。たった一度きり、父親も見た。Yの家のすぐそばの三角公園で、親子でサッカーボールを蹴りあっていた。息子に手ほどきするように、あちこちにパスを出していた男は、顔も体型もスマートだった。彼は、母親似なのだと思った。子供ながらに親子水入らずを邪魔するようで躊躇ったが、Yが手招きするので、私も混ざっていた。

 

奄美大島と往復しているらしい、とも聞いたがいつの間に彼の母親は、もういない、ということになっていた。彼の母はいるのだと思いたくて、不在を補うべく、想像した。灰色の厚い雲に覆われた南の島で、港から乗船しようとする群衆の中に、たくさんの荷物を抱えたひとりの女がいる。飛行機に乗った経験のなかった私には、Yの母親が飛行機で移動することをイメージしにくかったのだろう。

 

私の家は、程なくして急に倒産(身売り)したが、祖父が世間にも知られるラケット会社を経営し、それを手伝う父が元教員だったこともあり、50歳前後の日教組系の女の担任教師からは、教養ある安定した家庭として認識されていた。私と複雑な家庭環境のYとを、6年間同じクラスにしていた理由もそこにあった、とのちに聞いた。

 

実際に腕白な彼が問題を起こすと、私の母が親代わりの役をすることもあった。Yと私を連れて相手の家に詫びに行き、車道を無茶に渡る彼が、案の定轢かれて怪我した時にも、母が入院の手配をし、面倒を見た。

 

もう、高学年になった頃、何かの折に、なんで俺には母ちゃんがいないんだと、幼子のようにだだをこね、ばあちゃんにつかみかかって暴れる場面があったが、やはりちょうどその場にいた私の母がなだめた。同い歳の私の目線では、Yはずいぶんと大きな体だった。横暴でませガキだった彼が泣きじゃくったその顔が、今も瞼に焼き付いている。

 

奄美大島に行ったきり帰って来なかったのだという。Yの家独特のあの匂いは、母親の故郷の黒糖菓子の匂いだったのか、とだいぶあとで気づいた。甲子園の中継で、沖縄県代表の選手を見ると、彼に似ているな、と思うこともあった。それら以外に、私が知る沖縄を感じさせるものはなかったが、私にとっての「沖縄」の原風景といえるのであろう。

Nの場合-重なり合う原風景】

 

いっぽうのNは私たちのクラスに、小学校4年に越してきた転校生だった。どちらかといえば小柄で、すばしっこかった。Yも運動神経が良かったが、暴食がちで甘いものを好み、高学年になるとじょじょに肥え、往年の俊敏さはその頃すでに失い、自らは動かずに指示だけを与える番長のような存在となっていた。

 

Nは沖縄県の西表島から来たとのことだ。当時その島がどこにあるのかを知るのは、クラスでは私だけだったかもしれない。ずいぶんと遠いところから来たものだと思った。

 

以前の学校の体育着を普段も着ることが多かった記憶がある。勉強はできなかったが、悔しかったのか自ら申し出て、朝礼前の自習を始めた。教師に頼まれて私がそれを補助することになったのだが、突然Nは癇癪を起こし、慟哭した。

 

彼には失踪癖があり、誰も気づかぬ間に教室を抜け出し、学校の外で見つかったことも数度あった。のちのサティアンだの、なんとかヘッド云々も、そんな行動に由来する。道化のような仕草をして笑わせることもあった。Yなどにからかわれもしたが、いじめられたりはしていなかった。

 

俊敏で運動は得意なので、クラスでの立場は保っていた。実際に組対抗リレーのアンカーに選ばれた。3組中最下位でバトンを受けた彼は、前のめりになって転びそうになりながら駆けたが追いつくに至らず、走りながら泣いていた。

 

学校近くの郊外のバラックに住んでおり、遠いので交遊は少なかったが、卒業近くになって引越し、私の家の近くに暮らすようになった。駅近のマンションエリアに、野性味を帯びた彼がいるのに、なんとなく違和感も感じた。二人だけで遊んだ覚えもなく、大人数で外遊びするときも、誰かの家に集合してファミコンするときも、Nが居た記憶はあまりない。ただ転居先は、私の住むマンションから道一本隔てたすぐ先の路地にあり、二人だけで登下校することがよくあった。

 

一度だけ、Nの家に入ったことがある。学校に現れない日もあった彼に、届け物をしに行ったのかもしれない。

 

引き戸を開けると、ものすごいアンモニア臭だった。家々に囲まれ陽当りも悪く、家全体が薄暗かった。低い天井から裸電球が吊るされていたが灯してはいない。足下には、数本の瓶と子供服が乱雑に置かれていた。どちらかが脳に障害を持つ小さな妹と弟がおり、小便をよく漏らすのだが、処理が追いつかず、床に匂いが染み付いてしまう。

 

卒業式が終わってすぐ後のことだ。やはり姿を見たことがなかった彼の母親から突然電話があった、と母が言う。地元中学に進学すると苦手なマラソン大会があると知り、肥満気味だった私は、それを回避したいがためのみに、私立中学に進学したいと願った。6年生の途中から、隣駅の名の知れた学習塾に通った。成績最下位のクラスだったが、一校に滑り込み、間もなく友人たちと離れ、東京で中学生活を送ることになっていた。

 

Nの母親からの唐突の電話の内容は、息子も同じ塾に行きたがっているから、費用や手続きの方法を教えてほしいというものだった。母は値段を教えるほかなかったらしい。受話器の外から幼子の泣き声もきこえ、話を続ける状況でもなくなったのか、途中で切れたそうだ。

 

Nは地元の中学に入学して程なく、またどこかに引っ越したそうだ。その後誰も連絡先を知らないと、ひょうきん者の友人から聞いたのは、高校生の頃だ。

 

西表島から来たNは、姓も「西表」だ。登下校だけの交遊が主だったが、人を悪く言わないない彼とは、なんとなく波長があった。私は「イリ」と呼び、彼は「カワ」と呼びあった。共通の趣味があるわけでもなく、口数が少ないこともあってか、道すがら話した内容は何も覚えていない。

 

ひとつはっきりと覚えている風景がある。校門を出てすぐのドブ川の脇道のところで禿頭にタオルを巻いた汗だくのおじさんが、工事現場で穴を掘っていた。Nは一瞬立ち止まって「あ、父ちゃん」と呟いた。そのまま二人で、いつものように帰った。

【西表を眺めながら】

 

東の海の方から射しこむ光線を背後に感じると、いつの間にみるみると、空が橙に染められてゆく。南国樹クバ(枇榔)に囲まれた小道の遠くの方で駆けまわる、二人の童子が、いなくなったりまた現れたりしながら、いつの間に姿を消した。陽光はすでに溶けて薄れ、夕べの薄暮に戻ったかのような空に落ち着くと、Nの掠れた笑声も聴こえなくなった。

 

 集落を通って宿に戻る。潮風に晒された外壁越しに、平屋の中を覗くと、人影が蠢き、家事を始める老婆が庭に出てくる。もうすぐここを発ち、石垣に向かって高速フェリーで4時間、約120キロ北上する。

 

旅支度を終えて、集合時間まで束の間、ベッドに横たわり、Nの姓、「西表」の由来をスマホで調べた。

 

「沖縄県竹富町がルーツ。西の表に当たる場所が語源。沖縄県、東京都、埼玉県にみられる。」

 

全国に550人。そのうち石垣市に230人、西表島を含む竹富町に60人、埼玉県には20人との情報があった。

 

港の船着場で、昨夜入った居酒屋で働いていた女店員と再会した。そこで彼女は、静かな相槌を打ちながら控えめに会話に加わっていた。だが翌朝の印象は、昨晩と違い、むしろ朗らかだった。私より少し年上の50歳だが、今朝はそれより若く見えた。

 

船内を案内してくれたあと彼女は、我々とは少し離れたところに座席を取った。出航してしばらくすると、客室から外の舳先に出て、前方に広がる海原を眺めていた。私も、初めて渡るこの海を直に感じたいと思ったが、そこに行けば会話を弾ませなくてはならない。彼女がそこから立ち去るのを待った。

 

親切さがさりげなく、口調に湿り気のない彼女にはむしろ好感を抱いたし、島の暮らしについて、もっと伺いたいとも思った。しかし、一人海を見つめる彼女に話しかけるのを躊躇した。

 

しばらくすると右手に西表島が現れるはず。私は船尾の甲板に出て、ベンチに腰掛けた。上着のポケットにしまっていた缶ビールを開け、頭上を見仰ぐ。多数の海鳥(カツオドリ)が青空をゆったり旋回しながら、船に急接近したり、小魚を目指して海面に直行したりを繰り返している。それを目で追い続けることに疲れたが、風に吹かれながら黒潮に身をあずけ、純粋な幸福を感じた。 

 

やがてマングローブが群生する緑濃き小高い山々が見えてきた。

西表に違いない。国定公園域の一部でもある自然の宝庫、西表島は人の暮らせる平地の集落は少ない。さらにマラリアがはびこり、住人を苦しめた。戦前に炭鉱ができ、島々や植民地台湾からも労働者が集められ、過酷な条件で従事し、搾取された。

 

1960年ごろに閉鉱し、パイナップル生産およびその缶詰、加工業が基幹産業として取って代わった。しかし返還後の1970年代後半になると、海外からの輸入も増えて不況となった。

 

調べると、島の経済を支えた大工場は1983年に閉鎖された。Nが転校してきたのは、19845年のことであるから、関係があるのかも知れない。近辺に先住する親類を頼って島をあとにし、両親は三人の幼子を連れて埼玉に旅立ったのだろうか。

 

心の中で約40年ぶりにNに語りかけた。

 

「イリ、いま僕は君が生まれ10歳の頃まで育った島のすぐそばにいるよ」

 

すると、書き初めで左側に署名した「西表N孝」という、半紙の上で踊るような幼い筆字までもが、はっきり思い出される。実のところ、彼がどこで生まれ育ったのかは、確かめようがない。

 

海辺の小さな集落が見えてきた。よく知られている西表の民謡「まるま盆山節」を思い出す。島の沖合に浮かぶ小島で白鷺が羽を休める情景や、水田から小舟に乗って漕ぎ戻る人々の掛け声が歌われる。

 

ヨーホー
 まるまぼんさん ゆにゃゆにゃ見りば 
 風(かじ)ぬ根()ゆ知()
 居()ちゅるシルサヤ

 エンヤラヤンザー サー 
 エーイエーイヤー ハリバサヌシ
 ヒヤマッタヌ タムヌジュウ

(まるま盆山を夕方に見ていると、風の吹く方向を知る白鷺が木に座っている)

 「ゆにゃゆにゃ」とは、陽が落ち切ったあとの残光による薄明、いわゆるマジックアワーを指す。その海の彼方より幸を迎え入れるこの島特有の神事「節祭」の動画をみたことがある。500年前から伝わる三日間の祭りだ。まさに、東アジア海洋文明の十字路に位置するこの地独特の文化。そこで人々は多様な神々と戯れ、交信する。

 

豊作と村人の無病息災を願い芸能、海から神を迎える船漕ぎ、弥勒に由来するミリク神行列や、黒衣の花嫁行列の「アンガー舞」、滑稽な奇声を発する来訪神「オホホ」も登場する。八重山に広く見られるミリク(ミルク)は、中国南部の弥勒信仰に由来し、ベトナム方面からもたらされ、ニライカナイの他郷観と結びついたといわれる。オホホは、漂着し島の娘を連れ去ろうとしたオランダ人をモデルにしたとも言われる。

 

「イリ、君はこの島で、唄をきいたり、歌ったりしたことがあったの?お祭りでは踊ったの?」

 

Nの記憶の底には、島の神事や歌も微かに残っているのだろうか、などと思う。そして彼は今どこにいるのだろう。刹那を体内に秘めたような性質の彼だから、なんとなく、もうこの世にはいないのかも知れない、とも思う。

 

本島に次ぐ面積のこの島は、すぐには通り過ぎてはゆかない。しばらく物思いにふけっていると、渡辺氏が甲板に現れて言う。

 

「純さん、あれ西表ですよね。やっぱり大きいですね。」

 

彼はさっきまで舳先で、あの名も知らぬ女性と立ち話をしていたらしい。

 

「横浜から石垣に移住して、もう20年ほどになるそうですよ」

 

おばあの店の繁盛期のみ、与那国に渡って手伝っているのだという。ようやく西表を過ぎ、私たちは客室に戻った。舳先を見ると、彼女はまだそこ佇み、右手を額にかざして、行手を眺め続けていた。とすると彼女は、もう4時間近く、客席に座らずここに立ち続けていたことになる。

 

数えきれぬほど往来したこの海を、なぜ眺め続けるのだろう。船に乗るたびに、そうなのだろうか。

 

 

第四章【石垣島篇】

1. 八重山に聴く 2.三世代の歌 

 

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 古謡を訪ねる琉球への旅と極私的な原風景とを重ねて随想

 

【序章】 東アジア海洋文明への眼差し

第一【沖縄本島篇】

第二【与那国島篇】

第三【極私的原風景 1980埼玉】

第四章【石垣島篇】

【終章】精霊と子どもたち

済州島リサーチ 2023年8月

 

 

 一万八千の神々が宿る韓国の火山島に民謡の源流を求める旅の報告

 

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