【自身の作曲と歌について】河崎純

 

私の作曲は 、歌の創作、あるいは、歌の生まれる音空間の創出だと思っています。

  

私のような世代に、かつての共同体の暮らしの中にある民謡や俗謡は少なく、もっぱら「作品」や「商品」となった歌を享受してきました。その中でかけがえのない多くの歌と出会い、音楽を聴くことが好きになり、さらに外国語で歌われる音楽にまで関心をもちました。それら歌の数々が、しらぬまに人生を支えてくれています。

 

しかし、演奏活動を通じて、音楽という行為の原初を問うなかで、どうしても現在と異なる歌のありようを求めるようになっていました。

 

聴きたい歌や音楽は無数にあります。演奏家ですから、数えきれぬほどたくさんの歌と共に演奏もしてきました。しかしふと気がつくと、歌いたい歌が、誰かと、みんなと歌いたい歌が、私にはありませんでした。そのような歌を作りたい、そんな思いがそもそもの作曲の動機になりました。それまで一心にコントラバスを演奏していた私が、そんなことを思うようになったのは、30歳くらい、ちょうど2004,5年の頃でした。

 

それは「架空の民謡」のようかもしれない。しかし、そのような歌を作ったとして、それが成立する場はあるのだろうか?それはむろん、コンサートホールでもなくカラオケボックスでもなく、インターネット上のヴァーチャルな共同体でもなく、かつての血縁・地縁の共同体は望むべくもなく、望みもせず、さていったいどこにあるのだろうか。

 

それを探すことから始まった、自身の作曲の来歴を振り返ってみます。その実践の場が演劇をはじめとする舞台芸術の創作現場でした。

 

まず、歌そのものを作るより、それが生まれる場所を求め、自治的なコミュニティーと音楽の創生を同義、同時的な現象として捉える発想に親近感を覚えましたそのような実践の先人である戦後のイギリス、アメリカ等の前衛的な実験音楽、高橋悠治、交流のあったパフォーマンスグループ時々自動やその作曲家である今井次郎に影響を受けました。そこでは、たとえば五線譜など楽譜の再現という特権的な技術や伝統も前提となりません。さらに遡って、ドイツの劇作家、演出家ベルトルト・ブレヒトの音楽劇や教育劇を再考し、その作曲家であるハンス・アイスラーなどの方法も参考に、歌の創造の場を、より実践的な現場に求めました。とくに高校生や不登校生、大学生、地域コミュニティと演劇などの創作を通じて交遊しました。

 

私は詩人でも作詞家でもありませんので、歌に先立つ言葉(歌詞)が必要でした。与えられた言葉からいかなる旋律を生み出しうるか。その際、日本語からいかなる旋律が生ずるか、試行錯誤を重ねました。詩人、小野十三郎の「歌と逆に、歌に」という詩作理念に共感し、日本的とされる五七調の韻律から解放された詩から生まれる、新たな「民謡」の創作も試みました。それを声にするのが、いわゆる「歌手」でないほうが望ましいのは、私が「民謡」の本質を意識していたからです。それらを体現できる場所が、演劇創作の現場でした。いっぽうで、もちろん私にも作品として洗練させ、定着させたいという欲望もあり、それが信頼できる歌手や演奏家との純粋な音楽活動だといえます。

そのようにして作曲活動はじめたのと同時期に、演奏家として、ロシア、トルコ、ドイツなど海外でのコラボレーションの機会が増しました。そこで、各地の知らなかったフォークロアや、移民・ディアスポラ文化や人々の来歴に直に触れました。

 

古典や伝統は、技法や精神を洗練するこで様式美を獲得します。しかし、それら以前の、素朴で自在な歌の痕跡がフォークロアに残ります。

 

国家や民族など「」で括って捉えていた概念を疑い、それら枠組みを脱構築するような、作曲法を模索するようになりました。

 

大文字の文化や歴史では掬いきれぬ歌声の機微を重ねあわせるるようなイメージで作曲を行うと、結果的に20世紀初期、とりわけ近現代音楽のバルトークなどの書法に近いものとなりました。私の作曲書法は、20世紀の欧米の実験的な「前衛」から遡り、いわば西洋音楽史を後退するような変遷を辿ってきたともいえます。

 

いっぽう私はコントラバス奏者としては、楽譜に囚われない「フリーインプロヴィゼーション」のセッション、ジャズやロック、民族音楽周辺の音楽を活動の中心としています。それらの音楽のエッセンスは、即興表現にあります。歌は本来、楽譜によって定着する作品や伝統となる以前に、陽に照らされ、風雨に晒され、気分にも左右され、自在です。そのような歌の本質を屋内の舞台で体現するのならば、作曲のうちにあらかじめ即興性を内包されるか、「即興的」な自在な音の乱れを楽譜にあらわしておかねばなりません。本来、五線譜上の音符にあらわせない繊細で複雑で不安定な揺らぎ、他者の内省や逡巡や「気まぐれ(即興性)」も想定して、五線譜に収まる範囲であらかじめ楽譜に表されているため、やや複雑です。

 

作曲と即興表現がバランスよく調和することで、私の理想とする音空間は生成されます。そこから生まれるのが私にとっての歌です。

 

自身の作曲についてふりかえると、だいたいこのような過程のもとに現在があります。当初の思いや動機から遠ざかっているのか、近づいているのか、客観的にわかりません。結局のところ、私にとっての美しい世界をデザインしたのが楽譜であり、歳を重ねるうちにそれが自然に洗練されてきた、というだけのことのような気がします。

 

現代社会において、よりどころなく漂う孤独な心や精神が、安住の棲み家に収まることは困難です。絶対的な美や愛、特定の宗教、イデオロギーへの信仰、死後の世界に託すこともできましょうし、そのような音楽を求めることもできるかもしれません。

 

しかし、私が作る旋律は、収まりつかず漂ったままの心です。そんな孤独な歌の断片が絡みあい、それらを慰撫し、ときに鼓舞するようなサウンドスケープに包まれ、ようやく一つの歌になっている。

 

現代、私たちは、録音された無数の歌を「聴く」ことができますし、聴きたくなくとも聞こえてきます。私も、自分の曲が「聴かれる」ことも願っていますが、私やはり、声に出し、歌っていただければ、と願っています。しかしこのような音楽は、市場メディアに広くシェアされるものではありません。それゆえ、私の歌をより多くの人々に聴いて歌ってもらえる場所として、音楽劇などの舞台芸術の創作の主な現場としつづけて、現在に至ります。(2025年6月)

 

バイオグラフ→Works

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