沖縄フィールドワーク
2024年1月
〜極私的原風景と重ねながら〜
第二章 【与那国島篇】
【日本最西端】
台湾からわずか111km(沖縄本島からは250km)の与那国(どぅなん)は、周囲27kmの小さな島だ。異国でも他国でもないような、出会ったことのない風景だった。昨夏、済州島に着いた日、海岸線をドライブしたときの印象にも近い。
与那国の名が初めて歴史のなかに記されたのが、韓国の「李朝実録」だ。1477年、難破してこの島に漂着した済州島民が、帰還後に琉球の島々の風俗を尋問された。それによると、与那国の人々は
「一,島人の容貌は我が国と同じ」
とある。済州島で、その地の先住民の顔や身体の特徴を伺ったところ、半島の人よりやや肌の色が濃く、顔も身長も小さめとのことだった。沖縄の人にも似ていますよ、と聞いた。意識して過ごしたが、とくに高齢の人にその特徴が見られた。
たった丸一日でこの島を巡る主な目的は二つあった。女酋長サンアイ-イソバの伝説と、琉球王朝から最も遠く離れたこの地における古謡に触れることだ。
沖縄本島における琉球王朝が統一したのちも、1522 年 まで独立を保った与那国島の女性中心の社会を率いた女酋長だ。済州島にもソルムンデ婆さん(ハルマン)創世神話がある。東アジア海洋文明の母系文化に着目した創作を念頭に、まずイソバ縁りの地ティンダバナの丘を訪ねた。そこから東シナ海展望した。
その女酋長に関するとされ雨乞いの歌は「かみよーこいこさぬー」と復唱されながら歌われる。
だまとやま かんぬまい
ちまかりる みてみりや
くんどりる きわやりや
ばんがにがい にぐがらや
たしきやひり かんぬまい
にんぎんまりや むぬんつぁぬ
ふらしや ひり かんぬまい
十山の 神様の前
島枯れる ことであります
国が滅びる 際であります
吾が願い 今夜からは
助けて下され 神の前
人間に生まれて 何事も分からない
降らして下され 神の前
消滅の危機にある八重山言葉も、島ごと集落ごとに異なるそうだが、与那国言葉はさらに別の言語に分類される。資料館の中で見た五十音表記表には、「か 」「き 」「く 」の右に濁点の代わりに「○」がつき、鼻声で発音するそうだ。石垣島でも、与那国言葉は全く理解できません、と数人から聞いた。
「カイダ」という象形文字も明治時代になるまで使われた。このように独自の言語文化を有するが、戦時中も軍事的理由で禁じられ、戦後も昭和40年ごろまで「方言札」が用いられて制限された。
【古謡を求めて】
祭祀歌謡や古謡の中に古語は伝承されているだろう。言語特性によって歌唱や旋律は、特徴づけられる。だが歌謡は、周辺文化の楽器の流入によって大きな影響を受ける。
三線は15世紀頃に中国の福建あたりから琉球王府に伝わった。祭祀で女性のノロが歌うオモロも、宮廷音楽として男性もが歌い三線を伴奏楽器になった。
1879年の廃藩置県によって没落貴族が下野すると、三線は各地の庶民にも伝わった。八重山、先島にも広がり、伴奏楽器を伴う「節歌」が生まれた。現在私たちが親しんで島唄と呼ぶ琉球民謡は、主にそれを指す。工工四(くんくんしー)と呼ぶ楽譜に記録され、今もそれをもとに学ばれている
民謡や琉球古典音楽から遡って古い与那国の歌に着目して活動する、與那覇有羽氏の民芸工房を訪ねる計画をしていた。fujiロックフェスにも出演するなど広く注目される氏のインタビューは、インターネットでも触れることができる。
生涯の始まりと終わりに、同じ旋律を聞くのだという。葬儀歌でもある「みらぬ唄」と、子守唄の共通することについて語る氏の視点が、とても興味深かった。その音階は一般的な琉球音階と少し異なり、かつその原型ともされる3度音程の堆積による。祭儀などの最後に行わて熱狂する「どぅんた」と台湾原住民族の祭りとの類似性も言及されていた。手を繋いで踊る所作が、琉球地域にはあまり見られないのだそうだ。
アポなし訪問となるが、話を伺うのが楽しみでならない。海の向こうに見える台湾文化、その原住民族との交流を伝えるDidi交流館を訪ねた後、念のため渡辺氏が連絡先に電話をかけた。いま那覇にいます、とのことだった。
残りの予定を考えると、翌朝までの滞在となるこの島で、歌に出会う機会はもうないだろう。一日でそんな出会いを求めるのもおこがましいが、落胆この上なかった。
午前中に参加した海底遺跡クルーズでは、案内され、船底で鮪のように寝そべって海の底を眺めるうちに船酔いし、7000円も払って遺跡を見るどころではなかった。
体調も最悪のなか、世界最大の蛾、ヨナグニサンの資料館に立ち寄ったが、映写室で島の生物に関するDVDを観ながら、しばし呆けるよりほかなかった。
帰り際に渡辺氏が渡り蝶について学芸員に質問をしつつ、我々の紹介をすると、それならと彼女が奥の部屋に向かった。しばらくして20代そこそこの女性が、たくさんの資料を持って現れた。民謡や祭(マチリ)を中心に、失われつつある島の慣習や、言葉を、整理、編纂しなおす膨大な作業に携わる聡明な方だった。
子供の頃から三線を習っているのだそうだ。そんな彼女に、私は楽器流入以前の古謡についてばかり尋ねる。われわれは琉球王朝支配以前の姿を求め、そんな質問を繰り返すが、三線とともに歌われる民謡も、すでに200年近くも前から伝承されてきたのだ。それを軽視しているようで申し訳ない気持ちもあった。それでも彼女は資料を探しながら真摯に答えてくださる。
あなた自身は歌わないのですかと尋ねると、苦手なので現在は三線のみです、と謙遜する。たしかに様式化して洗練された歌唱を習得するには、高度な技術と研鑽が要される。だが、彼女のような人こそ、それとは異なる、古くて新しい歌や文化を生み出せるのではないか。勝手ながらそんなことを思いつつ、予期せずに出会った譜久嶺マリサさんが、いつかユーラシアンオペラで歌ってくれる姿を想像してしまった。
車を返却し、宿付近までのバスの最終便が来るのを、暮れなずむ集落を歩きながら待つことになった。「女酋長」、バス停付近にあった古びたレストランバーの名だ。われわれは、例のサンアイ-イソバに由来するに違いない、と閉まっている店の扉をノックした。
「バスの時間があるので、ビール一杯ずつだけなのですが」
と伝えると、われわれのために早く開けてくださった。しばらく飲んだあと、渡辺氏がマスターに店名の由来をたずねるためカウンターに近寄った。席にもどってきた氏は、
「純さん、まったく関係ないとのことでした」
あはは。「実はイソバの末裔で云々」などと、なんでも繋がらない方が良いのである、とかえって愉快だった。蛾の館で出会った「歌わぬディーバ」との邂逅に有頂天になっていたからだろう。
【「死者の都」の葬礼歌】
小さな周回バスには誰も乗っていない。あとで乗り合わせた老夫が、問わず語りに釣り自慢を始める。大阪からこの島に来て25年、80歳になる。今日は歯医者に行くために往復8時間船に乗り、その帰りだという。
いつの間に外は真っ暗になって景色は見えず、この箱の中で南島の夜気ばかりを感じている。降車して夜空を見上げると、数えきれぬ星々が、微かに震えながら散乱していた。宿に荷を下ろし、港近くの一軒の居酒屋に入り、土地酒の泡盛を楽しんだ。
店閉まいを始めた23時過ぎ、店主である初老の女性が電話をかけまくっている。我々のために唄者を呼んでくださっているのだ。
さっきまであそこにいたあの娘が良い、と電話を掛けるが、那覇から帰省している同窓生との宴たけなわで、中座できないとのこと。「おばぁ」は、そのスナックへ、誰かに車で送迎させるから、一曲だけでも、と引き下がらない。悪いですからと詫びたが、それでもと別の方を呼んでくださった。60歳くらいの気さくな男性が、三線を持って現れた。
いくつかの民謡を聞いた後、また古謡について尋ねた。火葬場や寺もなく、仏僧もいないこの島で今でも行われる風葬文化、その洗骨で用いられる泡盛「花酒」の話、葬儀で歌われる「あはれどー」と死者に呼びかけて野辺送りで歌われる「哭き歌(カディナティ:風泣き)」について、貴重な話を伺う。
琉球独特の亀甲墓が野中に林立する与那国は「死者の都」といわれることがある。
失われつつある島の古いしきたりについて、おばあは遅くまで興奮気味に語ってくれ、自身の父の葬儀をスマホで撮影した映像まで見せてくださった。そのDVDを貸すので、明日の朝船に乗る前に店の扉の前に置いておいて、とのことだが、残念ながら我々のPCに再生機が付属しておらず、その場で少しだけ見せていただいた。
【与那国の朝・精霊の記憶】
フェリーに乗るまで束の間の散策をした。日本最西端の日の出は遅い。7時過ぎ、音立てぬように玄関の扉を開けて一人表に出る。仄暗い夜明け時に囀り始めた小鳥たちの声に囲まれながら、ヒト気のない集落に出る。
そこを抜けて、密生する濃緑に囲まれた小道に出たあたりで、微かな笑声を聴いた。まだ声変わりせぬ少し掠れた子供の声だ。40年前のNやYの存在がじょじょに重なってゆき、気がつくと一つの情景となっていた。
→第三章【極私的原風景 1980埼玉】
1.与那国の朝・精霊の記憶 2.Yの場合 3.Nの場合 4.西表を眺めながら
全文に戻る→ 沖縄フィールドワーク 2024年1月
古謡を訪ねる琉球への旅と極私的な原風景とを重ねて随想
【序章】 東アジア海洋文明への眼差し
第一章【沖縄本島篇】
第二章【与那国島篇】
第三章【極私的原風景 1980埼玉】
第四章【石垣島篇】
【終章】精霊と子どもたち
→済州島リサーチ 2023年8月
一万八千の神々が宿る韓国の火山島に民謡の源流を求める旅の報告