
今秋、4年連続でトルコから来日するセルダル・ジャーナン氏が暮らすのは、イラン、イラク、アルメニア、シリアに囲まれた山岳地帯です。暑く乾いた土地を思い浮かべるかもしれません。
けれどもその地は、北緯でいえば岩手とそう変わらず、雪深い冬と厳寒を生き抜く人々がいます。半農半牧の暮らしは今も続き、季節ごとに移動する営みのなかに歌が息づいています。
「ざあざあ吹ふいていた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行われていた鹿踊りの、ほんとうの精神を語りました。」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」)
今回、盛岡、東京での公演では、昨年の「春と修羅」につづき、宮沢賢治の短い小説「鹿踊りのはじまり」をベースにしたセルダル氏とのコラボレーション作品「野原のめつけもの」も上演。クルドの伝承歌を軸に、物語をベースにした歌やパフォーマンスが織り混ざって、音楽劇を創造します。クルド文化を学ぶ上田恵利加、岩手、遠野を故郷にもち神楽伝承プロジェクトでも舞う、ダンサー、俳優の三浦宏予、舞踏の亞弥、能、狂言をはじめ日本の諸芸と現代劇を横断する吉松章(長野の諏訪の神事を描く映画「鹿の国」メインキャストの一人)、東京の離島、青ヶ島出身でその太鼓を叩きつつ国内外活動する荒井康太、フラメンコギターであらゆるジャンルを越境する小沢あき、そして私のコントラバスでお送りします。
なぜ、遠いクルドの歌と宮沢賢治かと思われる方も多いでしょう。その歌との出会いをふりかえりつつ、そのような疑問にできるだけお答えするつもりで創作ノートを書きました。
ツアースケジュールのあとに、盛岡(9/26)、東京(10/6)で上演する『 野原のめつけもの 」-「鹿踊りのはじまり」考』のためのパンフレット文章があります。⇨またはこちらから。
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セルダル・ジャーナン 来日ツアー2025 <メソポタミアの 山の声>
◾️岩手公演
9/26 (金)19:00(開場18:30)
会場:もりおか町家物語館 浜藤ホール(岩手県盛岡市鉈屋町10-8)
https://machiya.iwate-arts.jp/space/hamatou
出演:Serdar Canan、上田惠利加、河崎純、小沢あき、荒井康太、亞弥、三浦宏予、吉松章
総合演出・作曲:河崎純
チケット:3,000円(全席自由)
◾️東京公演
10/5 (日)15:00(開場14:30)
会場:求道会館(東京都有形文化財)(東京都文京区本郷6-20-5)
https://kyudo-kaikan.org/toptop.html
出演:Serdar Canan、上田惠利加、河崎純、小沢あき、荒井康太、亞弥、三浦宏予、吉松章
総合演出・作曲:河崎純
舞台監督:憩居かなみ
チケット:4,000円(全席自由)
[予約] リンク先のご予約フォームからお申し込みください。
<そのほかコンサート>
9/25 秋田公演では、歌手、詩人、画家の友川カズキさんをゲストに迎え、共演もします!
◾️山形公演
9/23 (火祝)14:00(開場13:30)
会場:境見山学舎(山形県長井市今泉2389)
https://rakuichi-project.wixsite.com/saimiyama
出演:Serdar Canan、上田惠利加、河崎純
チケット:3,000円(全席自由)
◾️秋田公演 -Special Guest 友川カズキ-
9/25 (木)19:00(開場18:00)
会場:THE CAT WALK(秋田県秋田市大町3丁目4-11)
出演:Serdar Canan、上田惠利加、河崎純
スペシャルゲスト:友川カズキ
チケット:5,000円(ドリンク別・全席自由)
◾️埼玉公演
9/28 (日)18:00(開場17:30)
会場:ギャラリィ&カフェ 山猫軒(埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷137-5)
出演:Serdar Canan、上田惠利加、河崎純、小沢あき、荒井康太
チケット:予約3,000円、当日3,500円(全席自由)
<Serdar Canan(セルダル・ジャーナン)>
トルコ・ハッカリ県ユクセコヴァの音楽家・民族音楽研究者。2019年、ミマール・スィナン芸術大学(イスタンブール)で修士号取得。演奏活動、歌唱・演奏指導の傍ら、クルド音楽の歴史と理論、奏法についての論考を発表。東京藝術大学、京都大学からの招聘を受け2022年、2023年に来日。大学や民間施設で多数のレクチャー・コンサートを実施。2023年、日本4都市でのツアーを開催し、「一度聴くと忘れられない、魂の歌声」と大好評を博した。2024年、劇場公演「Bihar û Aşûra -春と修羅-」主演。日本を舞台に活躍する唯一無二のクルド音楽家としてトルコでも高く評価されている。
[主催・制作] JBK Production、上田惠利加
[制作協力] 河崎純
[問い合わせ] 上田惠利加 japanbikurdi@gmail.com
[予約] リンク先のご予約フォームからお申し込みください。https://forms.gle/UeApxsx3jHaTFqqN8
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クルドの歌と宮沢賢治
私はクルドの歌と「鹿踊りのはじまり」に向き合う中で
・異族同士の出会い
・歌の伝搬
・なぜ戦の歌を歌う(踊りを踊る)のか
とくにこの三点に着眼して創作を試み、パフォーマンスと観客のみなさまによる、この空間そのものこそが、何かことの「はじまり」だと仮想しました。
『野原のめつけもの-「鹿踊りの始まり」考』創作ノート
▪️クルド伝承歌との出会い
私がその歌に出会ったのは、2022年の雨上がりの蒸し暑い夏の午後。埼玉の古びた集合住宅の一室でした。その歌、あるいは歌い手は、デングべジュと呼ばれます。
「これはムスリムとクリスチャンの別れ歌う、悲しい恋の歌」
部屋の主のクルド人女性が、日本語で説明してくれました。さらにセルダル氏に尋ねると、その地にはさまざまな人種や民族が交錯し、抗争も絶えなかった土地だそうです。そこではこうした異教徒同士の悲恋の結末も、珍しくなかったようです。
その2,3時間前にある方から連絡があり、急遽、都心から戻り、濡れた折りたたみ傘を手に、暗い雲たがたちこめる空の下、私の住居から線路を跨ぎ、しばらく歩いたところにあるはずの、その建物へと駆け付けたのでした。
そこに暮らすクルド人の彼女らと初めて会ったのは2020年初頭。その後も交流を深めたいと互いに望みましたが、直後からの「コロナ禍」によって、交流は途絶えてしまいました。
人々の不安や鬱憤も影響したのでしょうか、セルダル氏と出会ったこの再会の頃は、排外、排除的な声がSNSなどで妙な顕在化をしはじめていました。
アジア全域からの移住者や留学生が多い私も暮らすこの町は、同時に排外主義行動のメッカでした。近年では中国出身者に対する排斥のデモがよく行われていました。それらが表向き鳴りをひそめ、標的が、ほとんどが「仮放免」という立場で生活するクルド人に向けられていました。
そんな状況も相まってか、彼の第一声は思わず反射的に私の涙を呼びました。やがて歌声そのものの深みにひきこまれ、さらなる落涙を禁じ得ませんでした。異様な抑揚とともに無拍節で吟じられる朗詠や、哀切極まる歌唱からは、霊性をまとった荘厳な祈りや悲痛な歌を想像させました。
次々と歌われる歌と歌の間で、私が内容や背景を尋ねると、女性たちが通訳してくれました。しかしそれらの歌は、むしろ日常とも密着した「民謡」や歌い継がれた叙事詩でした。
夫たちは仕事でいないが、来客を迎える姉妹は思わず手拍子し、日本のアニメをスマホで楽しむ彼女らの幼子たちが、近寄って泣き出したり、踊りだしたり、隣室からちょっと顔を出した大きな男の子は、関心なさげに扉を閉めてテレビゲームを続けます。
ここで育った子らは、日本語で教育を受け日本語がネイティブといえますが、彼らすら親と共に強制送還とならざるをえない危険があります。
私は自身も含むこの空間の中に、私たちが失った歌のありようを目撃し、この体験や出会いそのものを、多くの人に伝えたいと思いました。それはたんに民族音楽の紹介としてではなく、コラボレーションによる新たな形式の創造を目指し、その秋には、彼女たちも参加するドキュメンタリーな音楽劇を発表しました。

▪️賢治との交響
現地に赴きクルド文化を学びセルダル氏を招聘する上田恵利加氏と、東北地方のフォークロアや宮沢賢治に着目しました。クルドの歌と東北のフォークロアが共に鳴り響く舞台を構想し、昨2024年には「Bihar û Aşûra -春と修羅-」を東京で上演しました。
新たに歌の生まれる空間、「ポラーノ」の広場をイメージし、そこでクルドのフォークロアと、「心象スケッチ」が響きあいました。
それは、近世と近代の過渡における、農業者、教育者、信仰者、モダニスト、科学主義者としてのさまざまな矛盾や葛藤、いわば賢治の「修羅」と、芸術家であり伝承文化の研究者であり、家族制度の強固な因習的な山岳農村の生活の中で家を継ぐセルダル氏、あるいはその民族の「修羅」を重ね合わせて、生を問い直すことでもありました。あるいは暮らしとは別のところから異文化の深淵に向き合う困難をもつ上田氏の「修羅」とは。
▪️「鹿踊りのはじまり」考
伝統芸能の名前が冠された宮沢賢治のこの短い寓話は、野原で眠りについた「わたくし」の、おそらくは夢の中に展開されます。私は、賢治が異族同士の交差点を伝統芸能の起源と幻視したのだと思いました。
夢物語は、嘉十という百姓が手拭いを忘れたことに気づき、鹿のために栃団子を分け残した野原に戻るところから始まります。
私は、私たちが失った「忘れ物」を呼び覚ます物語として、セルダル氏が歌い継ぐクルドの叙事詩のありようだと仮説することから、この舞台の創作を始めることにしました。
きーん、と耳が鳴ると嘉十は、きゅうに目の前にいる鹿の言葉がわかってしまい、自分でも不思議に思います。6頭の鹿は嘉十の忘れた謎の物体にきづき警戒します。
「これは生き物だろうか?」と一頭ずつ順に嘉十の忘れた手拭いに近づき、恐るべきものではないとようやく確信し、戯れて踊り歌い、ようやく嘉十の残した一つの栃団子を分けて食べます。最後に手拭いに近づいたリーダーはほんの豆粒ほど。
それはたんに異族である鹿(=異族)が持ち込んだ壮麗なダンスではなく、鹿と自らが忘れた精神(農作業で汗が染み込んだ手拭い=百姓)との交感の総体です。異族とは嘉十にとっては鹿であり、鹿にとっては生き物かどうかもわからない「手拭い」です。
一挙一動を見つめていた嘉十は、鹿の様態や声の麗しさにみとれ
「ホウ、やれ、やれい。」
思わずし歌い踊る鹿たちの輪の中に飛び込もうとします。しかし同時に、鹿と自分が異なる存在であることを再確認します。そのとき鹿たちは、この野原から立ち去ります。
「そこで嘉十はちょっとにが笑いをしながら、泥のついて穴のあいた手拭てぬぐいをひろってじぶんもまた西の方へ歩きはじめたのです。それから、そうそう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとおった秋の風から聞いたのです。」
さらに鹿と忘れ物との束の間のこの舞いの宴に、「わたくし」も夢の中で参加しているのだと、私は思いました。自然の厳しさと不可分に生きる農民になりきれない賢治の葛藤を表しているかのようです。嘉十も、それを夢で見ている「わたくし」もどちらも賢治自身なのでしょう。
伝統的な鹿踊りは8人で演じられることが基本だと言われます。なぜ賢治は「わたくし」の夢想譚ともいえるこの物語に6頭の鹿を登場させたのでしょうか。
私はまさに、「見学者」である嘉十と、夢想者である「わたくし」を含めて「8頭」による踊りの「はじまり」を賢治が描こうとしたのではないかと思えるのです。読み手である私たちは、わたくしにも、嘉十にも、鹿たちにも、自らを置き換えることが可能ですが、自らという存在も、それらが一体化、総体化されたものであるといえます。
▪️まれびとの歌
あらためて、百姓の手拭いに表象された「忘れ物」とは、「わたくし」あるいは私にとって、いったいなんでしょうか?
私は、それを、異族や外来者によってもたらされた芸能として仮説しました。
ある土地に訪れた外来者である「まれびと」が、その土地の芸能を生成する、折口信夫の異人論のイメージです。今回の公演では、私は、先に書いたような、セルダル氏の歌とともに感動した歌のありようが、私たちの「忘れ物」になるといえます。
賢治は、やはり伝統舞踊を描いた『原体剣舞連』では「悪路王」の名を出し、律令国家による東方征伐における蝦夷側の指導者ともいわれる者の記憶を甦らせます。菅江真澄やのちの柳田國男の山人への関心から出発し、民俗学的な知見から、東北の基層民族としての蝦夷の存在や、蝦夷とアイヌの関係についても論考されて久しいです。さらに伝統芸能の古層にそれらを連関させた言及があります。
「蝦夷」の痕跡、無数の漂流民の往来と交流や、北海道、樺太、千島、北海道そしてロシア、中国大陸へと広がったサンタン貿易から、その文化伝搬は「北のシルクロード」ともたとえられます。日本の単一民族国家史観から抹消された、マージナルな北方文化圏を想像することもできます。
江戸時代後期の文人・紀行家、菅江真澄の見聞録には、下北半島の不思議な「盆歌」のエピソードにふれています。青森からロシアへ渡った船乗りが故郷を懐かしむ歌が、のちにシベリアから訪れたロシア人によってもたらされた日本語の盆歌(旋律は現存しません)です。歌詞にはロシア語の「砂糖」を表す語が囃子言葉のようにあらわれます。
今回の出演者、打楽器奏者の荒井康太氏が、出身である島の民謡を紹介してくれました。
東京から約360㎞、伊豆諸島の有人島の最南端に位置する青ヶ島の島鳥の名を冠するその美しい歌。そこに現れる囃子言葉は、島には存在しない草の名や歯黒の習俗が描かれます。
草の名は、岩手、宮城、秋田と東北でよく知られた民謡にあらわれます。さまざまなバリエーションがありますが、元来おそらくは春の山歌、草摘み歌でした。歌詞もかなり類似しています。
流刑地としての歴史を持つ島にさまざまな外来文化が流入したことは想像しえます。しかし、さすがにあまりにも遠いせいか、八丈島、さらにその南方70キロの青ヶ島に、東北からの流刑者や流民の記録はないそうです。
また、動物や人間が山にまどろみ、その夢の中で外敵(異人)と出会うという構造も共通します。
東北から海を越えて伝わった歌かもしれません。説話の構造としては珍しいものではないと思いますが、まさに宮沢賢治の「鹿踊りのはじまり」の構造との共通点を指摘することもできるかもしれません。
賢治が、その岩手の民謡「そんでこ節」について親しんだ記録は、私が知る限りありません。文字による記録に残らぬ過去を眼差し、想像することとは重要です。
▪️「戦い」歌うフォークロア
「国家を持たぬ最大の民族」とも言われ山岳を跋扈したクルド民族と律令国家のアウトサイダーとされた東北先住民を「まつろわぬ民」として重ねて思い馳せることも、凡庸な空想に過ぎません。
しかしありえなかった、あるいは、なきものにされた歴史観から、分断によって持続を夢想する現代社会に対し、新たな視座を持ちうるのではないでしょうか。文化や芸能とは、つねに他者との接触と出会いから生まれるものですから。
岩手など東北各地の「鹿踊り」の起源の諸説にも、蝦夷と和人との戦いやその鎮魂を説くものもあります。セルダル氏が伝承するクルドの歌には、とくに戦やその勇者の伝承が数多く残っています。異民族が交錯する土地で、それは生き延びるための記憶の継承です。
日本にも、古くは平家語りや戦争を背景に脚色された昔話や戦意を高揚させる軍歌もありました。しかし現代の日本人にとっては違和感と共に馴染みのない歌といえます。
戦後15年ほどの1961年のテレビ番組で、当時新進の映画監督であった大島渚が、元軍人などの保守系論客と論争するテレビ番組がありました。戦う正義のヒーローものの、子ども向けの劇画の是非についてがテーマでした。大島はそのような戦闘的ヒロイズムも、国家への忠誠心を涵養し、戦争に直結するものだと否定します。
大島の異議について、思想家、詩人の谷川雁は著書のなかで言及します。九州で炭鉱労働運動を組織し、農本革命をアジテートした谷川は自らの体感から、労働者、まして子供には、そのような連続性をもつ論理はないといいます。大島の説は、行動し得ぬ中産階級的論理への適用に過ぎず、むしろ権力に抗う動乱のエネルギーを削ぐのだといいます。
「なきはらすきこりの娘は
岩のピアノにむかい
新しい国のうたを立ちのぼらせよ
つまずき こみあげる鉄道のはて
ほしよりもしずかな草刈場で
虚無のからすを追いはらえ
あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ」(谷川雁「東京へ行くな」)
しかし1965年、谷川は運動の不可能性から、詩人、文筆を廃業し、逃走の前線から離脱します。かつて、「東京へは行くなと」煽動した谷川は東京に居を移しました。
実践の場を私的な教育機関に転じ、「10代の会」や「ものがたり文化の会」を組織しました。世界の童話を研究し、子供達と宮沢賢治作品を身体表現化する「人体交響劇」の創作を試み、を組織したり、三世代が歌える新たな歌の創出目指し、詩作や文筆もも再開しましたが、現代では多くの人々に忘れられています。
▪️勇気の寓話として
「長い髪を垂らした仮面と 馬乗り袴を持った あのユニフォームは、人間と馬を一体化した 騎馬兵士の象徴ではなかろうか。あそこにさびしく甘美に匂っているのは、かれらが守ろうとするこども・女・老人たちの影だろう。」(谷川雁「ものがたり交響」)
かつての指導者としての煽動的な革命的ロマンチズムに回帰したたかのような文体に、いささか戸惑いを覚えますが、これは谷川の宮沢賢治の「鹿踊りのはじまり」および民俗芸能「鹿踊り」についての解釈です。さらに引用を続けます。
「この芸能(鹿踊り)の底を流れているものが戦士の美しさであることは否定しがたい。それでは風は、戦士の美のはじまりを説こうとするのだろうか。」
「鹿踊りを軍隊になぞらえるとき、ぼくたちは農民がそのまま戦士であって、農民でない戦士は一人もいなかった時代があると仮定してみればいい。かれらの敵はどこにいたか。敵は異族である前に、まず飢えであり、病気であり、天災地変だった。それは近代の軍隊よりはるかに奥行きのある軍隊だ。」
科学や芸術は、それらに対する「武器」になりうるのでしょうか。生活と芸術の両立や同義をとく実践の書「農民芸術概論」を思い出します。
私は大島に同意しましたが、ナショナリズムが横行し、反権力が右傾化する現在、人間にとっての、たたかうということの見解の意味を深く問う、相違であるように思えます。
そのような観点で、賢治=「私」の夢の中で幻視される伝統芸能の起源を語るこの物語について再考し、異文化に向き合う勇気の寓話として解釈してみました。
▪️移民の街から見えること
さいごに、宮沢賢治が死去して約100年を過ぎた現在、排外主義が謳歌される現代社会において、クルド人をはじめ海外からの移民や留学生の多い街に暮らす私の、実感を述べたいと思います。
さまざまな国籍、出自、法的な規制の状況もさまざまですが、まず感じるのは、身体に内在する生きるための知恵の熱量です。働き、遊び、仲間を大切にし、情け深さゆえの諍いや衝突も多いでしょう。異郷で生きる緊張と心構えと言ってもよいかもしれませんが、先住民たる「日本人」とは異なる力強さも感じます。
いっぽう日本人の一部は、他者を蔑むことで生の実感を取り戻そうとします。そのように「弱く」なってしまった理由は何でしょうか?
戦争に負けたからでしょうか?軍隊がないからでしょうか?徴兵制がないからでしょうか?経済の不安からでしょうか?私自身は、戦う勇気と、権力に抗うしたたかな知性を、伝えてこなかった骨抜きの教育に根本があるように思えます。
▪️その歌は私たちだけのものではない
そこには、歌を市場を巡る商品としてしか扱わないようになった社会があります。
世界の様々な地域に歌を訪ねながら、それを実践する歌手らと共同作業を行ってきました。その経験に基づけば、歌の水脈が世代を超えて息づく地に生きる人々は、我々が忘れて失った力強い命の力を宿しています。
言葉もわからぬ遠い異国の伝承歌と宮沢賢治の物語を手がかりにした今回の創作から、得体のしれぬ者に対する鹿たちの勇気と、混ざりたくても混ざらなかった嘉十の勇気、その決断により何かを残した尊さについて再考します。そして伝説の起源を現在に運ぶ風のざわめきを、私は少しでも多くの人とともに想像したいと思います。
この「風の贈り物」による架空の伝説を読みながら、いつもあの、アパートの一室でのクルドの歌との出会いが、なにかの「はじまり」を夢想する出発地点だったと思い返します。
差異を体感し、葛藤と困難からではあっても、後世に継がれる美しい歌や踊りが生まれることを願って。私の忘れ物に出会わせてくれた、多くの「異人=まれびと」に感謝します。異郷で、言葉も文字もわからぬ恐怖の中で生き抜く、逞しさと勇気に想像を及ばせ、敬意だけは表し続けていたいと思うのです....
▪️修羅の小道
今夜もまた、私が暮らす街の駅前広場は「外国人帰れ」とアジテートする排外主義者とそれに反対し「レイシスト帰れ」と、街に暮らす人々を置き去りにした怒声に包まれます。「帰れ、出ていけ」の声を浴びて育ってゆく子どもたちは、いったい何の犠牲者なのでしょうか?あるいはいつか「反逆者」となるのでしょうか?強制送還あるいはそのリスクを避けて自主帰国によって、親と共に本国へ帰国するクルド人の子も増えている。
無力感に苛まれながら、風が通らぬ駅前広場を離れ、すぐそばのうす汚れた小道をふらつくと、ふと「南無妙法蓮華経」を唱えつづける呪詛のような声が、耳にまとわりつきます。カラダ弱き男の、100年前の修羅の声が。(河崎純 2025年9月)


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