済州島創作リサーチ2023年8月

一万八千の神々が宿る火山島、韓国の済州を初めて訪ねた。ソウルの作曲家チョン・ウォンキ氏との創作に向けての、リサーチ旅行だ。

 

 一見、日本の農村や漁村のようで親しさもおぼえるが、草木の濃緑、火山から溶け出した岩石の黒、白雲と黒雲が不均一に折り重なった空色、高すぎる解像度の画像のような異様さも感じる。

 

「東洋のハワイ」ともいわれる一大観光島だが、森、街、海辺、金石範先生の小説に描かれた悲嘆と混乱を極めた解放後の70数年前の風景が甦る。不意に吹く風に、その登場人物たちの切迫した息遣いを聴く。積み重なった黒い溶岩石の隙間や草木の繁みに耳を澄ますと、この島独特の巫覡で神房(シンバン)が神々の物語(本解=ポンプリ)を唱える呪文のような声も聴こえてくる気がする。

 

 香川県程度の面積という小さな島は、中央に約2000メートルの標高を誇る火山島を中央に擁し、麓を下ればすぐに海。平地部は少なく、石だらけの土壌は、稲作に適さない。一般的に、他地に強く影響を及ぼすような文化は都市を形成しながら平野で生まれる。離島という地理的条件によって周辺国家に翻弄されやすく、貧困だった。だが、それらに抗う精神は逞しかったという。

 

処刑場へと連行される人々の像
処刑場へと連行される人々の像

 

【鎮魂祭】

 

 そのような島に、歌を訪ねる。新たな創作では現在の暮らしまで残る多様な巫覡が大きなテーマとなる予定。だが今回は、むしろ民謡との出会いが主となった。

 

 現役の海女さんたちと劇団「ノリペ漢拏山」がつくる野外劇では、太鼓を叩いて北東部沿岸の四・三事件の虐殺被害がもっとも大きかった村、北村里(プクチョンリ)の鄙びた海辺の街路や農道を練り歩いた。神木や漁労の要所でたちどまって感謝の意を述べながら歌い踊る。ついさっき訪れた四・三平和公園では、予報通りの驟雨に打たれ、慰霊塔と不明の犠牲者の無数の墓石群のある広大な敷地を後にし、びしょ濡れになりながら車に駆け込んだ。この夜の野外イベントが行われることは不可能だと残念に思ったが、土地の人々は雲の流れを読めるのだろうか。

 

 賑々しく鐘や太鼓を打ち鳴らす行列の随行者である私たちも、促されて海豚の幟を持つことになった。それを雨上がりの夕空高くに泳がせる。

 

 【海女の野外劇】

 

 いよいよ埠頭に到着すると、この地の海女さんたちが歌を歌いながら暮らしそのものを演じる。その中には漁場に無断侵入した観光客を愉快に追い返しつつ和解する話、四・三の痕跡、原発汚染水を防ぐ種を海の「畑」に撒くという時事も織り交ぜ、海の暮らしをとともにあること生を願う。

 

 

1970~80年代にかけての民主化運動で盛んだった農楽や仮面劇の復興と再生の伝統が強く残っている。広場を意味する「マダン」劇だ。「ノリペ漢拏山」は、1983年に政府により解散を命じられた劇団を前身として1987年に結成された。海女たちが、労働の所作を交えたり、タイミングを間違えて恥じらったりしながら演じ歌う。年老いたハルモニたちが、劇中に配られた伝統食の餅を食べながら、海女唄と豊穣を願う巫覡であるヨンドンクッの形式を通奏低音にした野外劇を見入っている。

 

陸地から流入した儒教式の祭儀(酺祭:ポジェ)は男性が行い、女性たちが中心となって古来の巫覡(クッ)を継続させた。クッは植民地時代にも、卑なるものとして禁じられ、戦後も民主化運土井以前は前近代的な呪術として遠ざけられた。

 

 筏の上に乗った海女さんたちが「イヨドサナ イヨドサナ」と力強く地声で舟歌を歌いながら、担がれて海の「広場」にせせり出る。すると花火が連発されて夜空と海と陸との境界のないカオスを作った。東シナ海に現存する暗礁、イヨド(離於島)に由来するともいわれる。中国も領有権を主張しているが、済州島民の伝説に語られる幻の理想郷として知られ、そこに行ったものは二度と帰れないとも言われている。この歌は多くの民謡や神謡と異なる二拍子系の労働のリズムだ。

 

 ワークソングに伴う踊りはない。労働の所作を伴うので、手や足腰は自由ではない。前日に訪れた、済州民謡の名唄、安福子(アン・ボクジャ)先生によると、いわゆる「済州島舞踊」というものはない。あるとすれば、そのような歌舞はだいぶ後になって作られたものである。ことあるごとに行われる神房による巫覡や、男性中心の陸地より導入された儒教的儀礼のほか、厳しく貧しい暮らしを慰労して歌い踊るような「村祭」はなかったそうだ。

【韓国伝統音楽との違い】

 

 韓国の民衆芸能といえば、道を練り歩いたり、広場で行われたりした、遊行の芸人男寺党(ナムサダン)の芸や農楽、そこから派生する歌唱芸や打楽器合奏をイメージする。しかし、それら「プンムルノリ(風流遊び)」と呼べるこの晩のような娯楽や芸能も、この島の古いものではない。古来の長い困難な歴史を経て、ようやくそのような「遊び」が、こうして実現されているともいえる。

 

 小さな銅鑼(ケンガリ)をけたたましく打ちながら、この行列先導する初老の男性のリズム感は凄まじかった。たった1、2秒のフック(アウフタクト)となるフレーズで、その後に続く打楽器合奏の熱狂の渦を呼び起こした。スルドなどのブラジル太鼓も融合したためか、二拍子系のポリリズムが中心だった。

 

 これも、いわゆる古来の民俗芸能の伝統ではない。音楽家である私には、それが鍛えられかなり訓練された専門的な「技術」であることがわかる。だが、済州島には、巫覡で用いる神具としての打楽器以外に、楽器らしい楽器もなかった、と安福子先生からお聞きした。時間をかけて、陸地の歌唱や打楽器合奏の文化が導入されたのだろう。

スタジオには金時鐘氏のチャングが預けられていた
スタジオには金時鐘氏のチャングが預けられていた

 遠征する海女が各地からもたらす歌も多い(それらの歌が、研究者たちによって済州島オリジナルの歌と分類されることもあるらしい)。しかし技巧を凝らし鍛え上げた歌唱や、娼妓によるゆっくりと洗練された歌唱は島の人々に馴染まなかったという。

 

【歌の記憶

 

 釜山で生まれ済州島で育った詩人の金時鐘先生がある対談の中で言及した、1930年代の少年時代のエピソードを思い出す。陸地からの芸人を観た記憶だ。旅芸人の男は哀切極まる南道民謡「六字唄」を歌った。パンソリ歌唱のベースになる名曲だが、この地には馴染まず、ブーイングの嵐だった。芸人はその中で表情を変えずに伽耶琴を弾きながら歌い続けた。歌い終わって舞台から立ち去るとき、ただ一筋の涙を流すのを見た少年は、一人涙した。それを読みながら、なぜか私も涙が出た。私は、古い歌そのもとともに、いやむしろこのような「歌の記憶」を求めながら創作している。

 

神房の歌舞も演じてくれた。各楽器と動かす身体のパーツを連動させるとのこと。たとえば、銅鑼は足先、プクは腰など
神房の歌舞も演じてくれた。各楽器と動かす身体のパーツを連動させるとのこと。たとえば、銅鑼は足先、プクは腰など

 

 

 済州市街にある安福子先生のスタジオ「チェジュソルリ(済州の音)」で、2時間ほどお話をお聞きしたあと、たくさんの歌を聞かせてもらった。パンソリもアリランもこの島にはなかった。島の唄のほとんどは労働歌と、神々の由来を説く神謡だった。あえて娯楽と呼びうるのは、とくに女性にとって、それが都度都度に行われた神房らによるクッにおける謡舞だった。

 

 子供がその場にいることは禁じられていた。幼少時代に、堂でおこなわれる巫覡を、岩陰から覗き、ぞくぞくした。あとで思わず、その呪文のような神房の唄をまねて口ずさんでしまった。見ていたことがばれて、大人たちに叱られた。でも歌わずにはおれなかった。これが先生の「歌の記憶」だ。

 

 神歌から民謡化した「ソウジェ」という歌も歌ってくださった。シャマニズムと民謡の関連は、いずれも身近でなかった私にとっては謎めきつつ、それゆえに創作のテーマにもなっている。

 

【歌い継ぐ女たち=〜名唄・安福子を訪ねて〜】

 

 つい、二週間前のことですと、先生はこんな話をしてくださった。おそらくかなり高齢な母親が、現在治療のためソウルで親戚が世話をしているとのこと。その親族から夜遅くに電話がかかり、ハルモニが寝ながらうわ言のように「変な言葉」を繰り返して唱えだした。いよいよ危ないかもしれないと焦る。先生が受話器の向こうの声を確かめると、それは「イヨドサナ」の歌だったそうだ。

 女性ばかりで構成されるメンバーは、海女仕事で用いる水甕でリズムをとりながら歌う。河川に恵まれないこの島で、水汲みは女が行う日々の重労働だった。つねに水難死と背中合わせの海女の唄には、ときおり哀切的な悲歌を内容にもつ歌詞もある。しかし概して力強く、明るいエロスも感じた。

 

 海の歌と山の歌の違い、女性の島と言われるこの島で男たちの遊び歌や春歌の有無(→あまりない。猥歌というより、夫や姑の愚痴を述べる歌が多い)、かつてこの地を支配した元(モンゴル)(→与那国島の馬を前に歌ったエピソードをお話してくれたあとに歌ってくれた馬追い唄は、たしかに北方の遊牧民の歌に似ていた)や陸地の文化の影響、さまざまな話をお聞きした。確かめたかったことや、いろいろなことを知った。国楽が盛んな韓国だが、国立済州大学には伝統音楽の学部がなく、研究者の多くも民俗学者や文学者ばかりであり、音楽的な観点での研究が進んでいないのが残念だとのこと。

 スタジオをあとにした、われわれ一行は、南西の西帰浦方面で行われる先生のクラスをさらに見学させてもらう。そこではスタジオとは異なり専門的に済州民謡を教えるのではなく、街の女性たちの有志に幅広く韓国民謡や舞踊も含めて教えているそうだ。わたしはこの日に到着する舞踏家の亞弥さんを空港に迎えてピックアップするため、その終わり頃に到着した。一足先に到着した台湾原住民族タイヤルにルーツを持つ歌手、エリ・リャオさんとの民謡交流の一コマもあったとのことで、あとで映像を見せてもらった。

 

 近所の老人ホームでそれを披露するための練習だった。現役の海女や特産のミカン農園で働く方、大阪や東京で暮らしていたという方もいらした。

 

公演ではクルドの子守唄も歌われ、韓国、台湾原住民の子守唄と混ざり合った。2022年11月(MIKOMEX)
公演ではクルドの子守唄も歌われ、韓国、台湾原住民の子守唄と混ざり合った。2022年11月(MIKOMEX)

ハルモニたちが歌う海女の舟唄「イヨドサナ」をここでも聞きながら、クルドの歌を思い出した。昨年在日クルドの女性たちと交流し、昨秋一つの舞台作品を上演した。そのなかで歌ってもらった、「ロロクロ ロロクロ」と歌う子守唄が、ほぼ同じメロディだった。私が暮らす埼玉県の蕨や川口には、トルコでの迫害等を逃れてきたクルド人が2〜3千人暮らしている。日本の入管法によって強制送還される危惧の中で暮らしている。

 

【あいつの韓国語】

 

レッスンが終了し、「ハナ、トゥル、セッ」の合図で、また記念撮影。古くからの友人の声が脳裏に甦った。

正歌の歌手ジー・ミナと私 2022年11月(MIKOMEX)
正歌の歌手ジー・ミナと私 2022年11月(MIKOMEX)

 K君と出会ったのはもう15年くら前。私が30をすぎてまもない頃だか、もうその頃の私の年齢をとっくに超えているはずだ。やんちゃな高校生だったあいつ、彼が東京の北区周辺で組織していた演劇活動を手伝っていた。昨年およそ10年ぶりに再会した。

 

 韓国の正歌の歌手ジー・ミナや在日クルド人女性たちとおこなう公演の舞台監督を、急遽お願いすることになったからだ。現在の彼の生業は、地下アイドルのプロデュース業と、カードゲームの利権管理とのこと。だがらこうした舞台の仕事をすることはなく、かつての縁で引き受けてくれたのだ。

 

 彼の母方のルーツは済州島にあり、お婆さんは上野アメ横で喫茶店を営んでいたと聞いたことがあった。ある時期には、毎日のように会っていた彼から、それ以外に韓国にまつわる話やエピソードを聞いたことはなかった。その頃、若くして亡くなった彼の母の葬荒川区の斎場で行われた儀に参列した。

 

 韓国風はまるでなく、昨今の葬儀場らしい簡素なお葬式だった。お父様は、かつて演歌歌手、石川さゆりさんの舞台の裏方をしていらしたそうで、いやがおうでも眼に入り込む彼女の献花のほか、たしかに韓国名に由来すると思しき名を記した親族からの献花もあった。

 

 自らのルーツと創作、人生が深く関わり合っている韓国、朝鮮に家族のルーツをもつ、音楽家や、芸術家、文筆家の知人は多い。しかし彼は、そういうことは考えたこともなく、ただそれだけのことだと言っていた。すでに在日二世がおり、やがて三世も誕生するであろう、私の隣人、クルドの人々、少年や少女はどうなってゆくのだろう、と思う。

 

 K君は、昨秋の舞台公演では、韓国から来た歌手を気遣い、翻訳機を使ってよくサポートしていた。裏方として仕事をこなす彼は、終演後の記念撮影の撮影役になる場面も多かった。「ハナ、トゥル、セッ」の合図で写真を撮る。

 

 舞台恵子からの帰りの電車で、彼は笑いながらこういう。「俺が知っている唯一の韓国語です」。思い返すと、家庭の中で母親が、ちょっとした所作によくわからぬ言葉、すなわち韓国語らしき言葉を使うこともあったが意識することもなかったそうだ。「でも韓国の血はたしかに俺の中に流れているとわかるんです。それについて考えたりするようなことはしませんけどね」と言ってから続けて、「今回は、せっかく韓国から来た歌手に、孤独な思いをさせてはならない、というくらいの気持ちは湧くんですよ」と話した。

 

 記念撮影のあと、K君の「ハナ、トゥル、セッ」の掛け声が脳裏に反芻されるなか、安福子先生に短くお礼と挨拶をしに行く。

 

 差し出がましく、そういうことはわざわざ言わないほうがよいとも思ったが、「私には、この島に家族の出自を持つ友人が多くいます。そのなかにはご存じの通り、国籍上の問題だったり、この地を強く意識したり、さまざまな事情で、簡単にはここに来られない人がいます。だから、今回私がここを訪ね、大事な歌の話を聞くことを、半分は後ろめたく思っているのです。」と言い始めると、旅に同行してくださった日本生まれのアン・スンジンさんが通訳してくださる。すると先生が、「あなたが伝えてくれれば良いのです」と言いながら笑った。私には後を継ぐ言葉もなく、「カムサハムニダ」とだけ言い、先生とおばさんたちに深くお礼をしてお別れした。

 

 

最終等の巫覡で用いる音具たち
最終等の巫覡で用いる音具たち

【新しい銅鑼の響き】

 

  南の西帰浦から北の宿まで、暗い山道を飛ばす。車の中で、さっきスタジオで購入したばかりの銅鑼(jing)を、嬉しくて軽く叩いてみた。

 

 長らく、旧友の韓国打楽器奏者、チェ・ジェチョル氏から銅鑼を借りている。時折彼が本番や録音で用いるためにお返しする以外は、私の家にあり、私もよく本番で用いる。「この銅鑼(息子)の音を愛してくれる河崎さんだから、預けているんです」などと言われ、信頼してくれてただただ嬉しい。

 

年末にも、自由民権運動の壮士劇から出発した川上音二郎が、朝鮮半島の利権を背景にした日清戦争を礼賛する劇を作るようになる事実をフィクション化した演劇でも、この音を通奏低音に響かせ、ときに乱打した。私は自身がコントラバス演奏家であるせいか、低く深い音から発して鳴りやまない倍音のするこの銅鑼を愛して用いてきた。購入したものはかなりこの銅鑼の音質とはかなり異なる。

 

 済州島の銅鑼は、少し小さめなので、音が高い。撥も太いマレットではなく、棒状のもので、固い音だ。農楽では、もっぱらシャーマンの儀式でトランスするために用いるからだ。

チェ・ジェチョル氏(右上)とともに
チェ・ジェチョル氏(右上)とともに

 

 母方の故郷は済州島だと聞いた。大阪で暮らしていた祖母が晩年、故郷の神房の霊力を頻繁に頼るようになって家に呼にいでいたという話を聞いた。もう取り壊された大阪の占拠地にあった「竜王宮」生駒山地などには済州島の巫覡を行う仮設的な堂もある。済州島の出身者でも、男性はそれを訝しがることが多いそうだ。また、先述した先生のエピソードと同じく、晩年はうわ言のように済州方言をしゃべるようになり、娘であるお母様さえも理解できず困ったようだ。韓国語と済州方言の違いは、大和言葉と琉球語の違いによく譬えられている。

 

  私がいよいよ済州島に旅に行くことになり、自分の銅鑼もそこで手に入れるつもりだと伝えると、「俺にとってはチェジュは、いつか海を這ってでも行く土地なんです」と言った。日本や韓国の各地の街道や山々を、文字通り自分の足チャングを叩き歩く彼は、まだ済州島には行かないでいる。

購入した銅鑼
購入した銅鑼

 

 安福子先生のスタジオ「チェジュソリ」まで、一通りの済州島の巫覡で用いる打楽器を用意して届けてくれたのは、この島の打楽器の第一人者コ・ソクチュル氏だ。この島は民謡の宝庫であり、一大観光地である。当然、韓国の伝統楽器を売る店が当然あると思い、インターネットで探したがみつからない。

 

 今回のコラボレーターとなるソウルのチョン・ウォンキ氏に情報を求めると、伝統楽器を売る店や工房もないのだという。みな陸地に発注するのだそうだ。そこからも半島文化の流入の歴史が伺える。かつてもそのように伝わったそれらの楽器を、民謡や祭儀に独自の奏法で用いてきたのだろう。

 

 済州島巫覡で用いる先述したような小型なものと別に、韓国の伝統音楽で用いる、つまり長い間私がチェ氏からお借りしていた深淵な音色を持つ一般的なタイプの銅鑼も、念のため用意してくださった。どちらを選ぶか一瞬の躊躇はあったが、小型を選んだ。私は、少しヒステリックともいえるこの済州島のシャーマンの銅鑼とともに、これから先の音楽人生を共にしてゆきたいと思った。

 

【東の地中海】

 

 5日間の短いリサーチでは、このような直接的な交流のほか、私にしては珍しく多くの博物館や民俗資料館を訪ねる旅でもあった。今回の創作は、この済州島と琉球を繋げるような創作になる予定だ。

 

 膨大な情報にまだまとまりがつかずここには書けないが、多くを巡りそのような視点からの発見も多かった。同行の美術キュレーター渡辺真也氏の、世界や日本の神話や宗教史、古代から現代史に至る膨大な知識と、馬山で青果市場を営み韓国の現代美術のディレクターもなされているアン・スンジンさんが通訳までしてくださったおかげで、「東の地中海」ともいえる海洋文化圏の、国境を超える交流のダイナミズムに触れ、より幅広い創作視野を得ることができたと思う。

一般の家庭で行われた新築の時のクッの儀式の様子を見せてくれるチョン・ウォンギ氏。
一般の家庭で行われた新築の時のクッの儀式の様子を見せてくれるチョン・ウォンギ氏。

 

 帰りのトランジットで、ソウルの金浦空港そばの巨大なショッピングモールのカフェで落ち合った、チョン・ウォンキさんがみせてくださる、済州島のさまざまな現代のクッの映像を見て、あらためて思う。

 

<チョン・ウォンギ「 정화淨化X무악巫樂」巫覡クッを基にした創作>

 

 

 

 

 

 

 

 草木や黒岩の陰から鬼神たちの笑声のような気配がする。ほうぼうから漂ってくる歌声の幻影が、島を充たしている。

 

 情動に訴え続ける明快な旋律に納まらないのは、この島に国家主導による「伝統文化」が形成されなかったからこそ、なのかもしれない。国を持たなかった(持てなかった)クルド民族の、独自の複雑な歌唱による伝統叙事詩などの音楽文化もその意味では同様だ。

 

 あるいは自然や政治に翻弄されて命を失った人々の声が鳴りやんでいないのか。かつて常に卑民とされた神房が、いまなお、それらと対話しながら島に霊魂を呼び戻しつづけている。

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