蕨で出会ったクルドの歌⑥ 全文はこちら
1.【クルド歌謡の帝王と】
2週間ほど前、日本クルド文化協会のワッカスさんから連絡があり、4月29日にコンサートがあるから、できれば空けておいてほしい、と。情報を確かめると
「クルド歌謡の帝王 ホザン・カワ緊急来日」
とあります。
クルド歌謡は、トルコや中東各地にもありますが、クルド語で歌うことの規制もあり、シヴァン・ペルウェルやアイヌール・ドアンなどカリスマ性を持つアーチストも含め、難を逃れた地のヨーロッパから発信されることも多いです。帝王ことホザン・カワさんも、かつてクルド語で歌唱したことによりトルコ政府によって逮捕され、主にフランスやドイツで活動していると、ウィキペディアにありました。
これまでレポートしてきたように、私は、セルダル・ジャーナンさんのような学術的な研究も含む、民族の文化をプリミティブなフォークロアへと遡っての口承叙事詩への関心、いっぽう自分と同じ街に暮らす、とりわけ異郷で文化を受け継ごうとする女性たちとの関わりから、クルド文化と接してきました。ですから、ホザン・カワさんのような歌謡曲は、共演したり、創作したりする対象としては、あまり想定していませんでした。
もちろん聴く機会も多いです。近所のケバブ屋でそのミュージックビデオがいつも流れています。Denge JIne Japanの三人との練習で、彼女たちが参考に見せてくださる動画もよくみました。
彫りの深い顔の男女が、眉をひそめながら哀感たっぷりに歌い、強烈な打ち込みビート、西洋楽器も混ざりますが、伝統楽器を使うことも多いです。あの春のネウロズでも、民謡がそのようなアレンジで大音量で流され、それとともにみんなが踊り続けました。中東、アラブ地域の伝統的な音楽では、平均律にはない音が、明確に規定された微分音は、ポピュラーミュージックにも色濃く残ります。
やはり西洋のハーモニーにあてはめる難しさがあります。しかしエレキベースやキーボードにはコードの進行もあり、その響きに基づいて伝統楽器が旋律を奏でることも多いです。
身についた西洋音楽理論を基に、それにあてはまらない特徴を捉えるしかありません。耳の良い音楽家には一聴瞭然かもしれませんが、私は鍵盤をたよりに音源に合わせながらそれを探ります。そうしていくつかの特徴は掴めました。
インターネットで見つけた帝王の音源40曲ほどに、鍵盤で合わせ続ける。
たしかにコード進行らしきものはありますが、和声音楽に必須の「ドミナントコード」が現れない。歌や、サズなどの音律にあるいくつかの音が、このコードの和音を構成にあてはめにくいことが大きな理由だと思います。
ドミナント、ドメインとは「支配」や「領土」を表す言葉ですが、まさに、ある音楽の中で、影響力、支配力が強いハーモニーです。
ドミナントセブンスコードは、音楽に展開するドラマの中で、緊張の場面です。たとえば、日本の演歌や歌謡曲などでは、恋愛、失意、悦び、もっとも感情が切迫した歌唱表現や歌詞がこの和音の上にあらわれることが多いです。起承転結で言えばまさに「転」の部分。そのあと、主調(いわゆるキー)和音であるトニックコードで「結」び、落ち着かせるのが、和声的音楽の通常、常道といえます。
哀切感が尋常ではないクルドや、中東の歌謡曲では、高まる情感を、そのコードを用いずに、どのように表すのだろう。
また、その和声が別のコードへと変化するポイントも、明確ではないように思えました。リズムの周期ではなく、歌の拍節によるところが多く、歌詞の言葉がわからない私は、それを捉えるのに苦労します。
やはりこの地の音楽は、自らと遠い,,,付け焼き刃では無理。またそう痛感しながら、鍵盤で合わせたりコントラバスで試したり。「あって」いるのかどうか、それらの曲を演奏するかもわからない。
キーもチューニングもわからない、でも演奏する!!
とりあえず、明日、12時に「ハッピーケバブ」前。
これまで、コンサートでなんとか合わせながら演奏していると、「すごいですね」と言ってくださる方もいましたが、けっこう怖いのです...たとえば、故郷の歌を楽しみにしている人々を前に、まだなにもわからない私が演奏することが。なので、ついさっきまで寝床でそんな不安を反映するような夢も見ていました。
2.【なんだか海外にいるようだ】
前日、その人々にとっても危険で不利すぎる法案が衆院法務委員会で可決されてしまいました。
つい数日前の風景を思い出します。
深夜の、近所のチェーンの中華屋に入ると隣の席に、ともに30代半ばくらいのクルド人男性と連れの日本人女性。
白米にやたら大量の辣油をかけて分け合って食べていた男は、丼から箸を置いて女の腰に手を回し、スマホ片手に家族、自分の子供、自慢の車の写真とともに、厳しい顔になって片言の日本語で説明を加えながら、入管法への抗議デモや集会の映像を見せていました。女は関心があるのか、ないのかわからないような表情でそれを眺め、二人はまた、一つのジョッキの酒を飲み始めていました。
周辺に暮らすクルド人の約1/5の500人ほどの来訪が見込まれる、明日のコンサートに、彼も現れるのだろうか?「帝王」も12時に、そこに現れるのだろうか?それもわかりません。
濃厚すぎる歌謡の動画を時間ギリギリまでみて、サウナで昨日の酒を抜いたら、陸橋を渡ってケバブ屋へ。
異郷の地で、苦労して暮らしをなじませながら自らの文化も守ろうと生きる人々と、ドタバタ必至な今日1日の出来事、演奏とを、ほんの少しだけ重ねてみることができるかもしれません。
とりあえず、帝王はそこに居ませんでした。
文化協会のワッカスさんもいません。まさに入管法改正(悪)の問題で、それどころではないのでしょう。先日、共演した日本に移住したばかりの、トルコで歌手をしていたRさんが迎えてくれ、スマホの翻訳ソフトにトルコ語を吹き込み、英語に訳してくれますが日本語を話すことはできません。
日本人も、そこに一人もおらず、40年以上暮らすこの街で、初っ端からすでに迷い子。しかし、どうやら本日は、中東、アラブ音楽の専門家、ウードや打楽器の奏者の松尾賢さんが参加されることも知りました。正直、安堵。氏の到着を待って、本番会場に向かうのかと思いましたが、そうではないようでした。帝王のいるどこかで練習するとのことでした。
事前に準備できるということだけでもひと安心したのも束の間、私のコントラバスが車に載りそうにもないとのこと。本番近くの時間に家まで迎えに行くから大丈夫、と。
大丈夫じゃないです!!
リハーサルは不可避なので、いちおう自分で確認したいと申し出て駐車場に向かい、コントラバスを押し込む。なんとか、載りました(しかし、ビリっと木が割れるいやな音が…)!
「いまから足立に行きます」
二人のクルド人男性と、松尾さん、私とで乗車。コントラバスに圧迫され、ぜったいに腰を痛めるような縮こまった姿勢で乗り込みました。息苦しさで、そう遠くないはずのその地がとても遠く感じます。
しかし、そろそろ中間地点というところで、Rさんが自分のサズをケバブ屋に忘れたことに気付き、Uターン。クルド歌謡が鳴り響く車中、予測通りのドタバタな1日になることを、午後1時過ぎ、すでに確信しました。
県境を越えて間も無く、住所によるとこの辺りなのだが、と停車。あらゆる東京っぽさ皆無の街並み。どこでもよいが、まずは車外に出たい!
あっあれだ、と指さす先には、夏のような陽射しに干からびてしまったかのような佇まいのフィリピンパブ。
開店前のその店の奥の部屋に、スナック料理、クルドの男や、フィリピンの女や小さな子供に囲まれて、端正すぎる顔の、その人が鎮座しておりました。白を基調とした高価そうなジャージを羽織った帝王と握手を交わす。物腰は柔和だが眼光は鋭い。
それも知りませんでしたが、なんと、演奏家二人も引き連れての来日。それなりに威光を放つ帝王の指示で、大ベテラン風情のサズ奏者とキーボード奏者が、店のカラオケセットのアンプや、スピーカーをのんびりと調整しています。
キーボード奏者が英語で、短めな演奏をいくつかしようと。本番では、いくつかの短い曲をいくつか演奏するのか、と私は理解しました。できればたくさん共演したい気持ちもありましたが、ポイントを絞ってしっかり共演できると思い、少し安心。しかしこれは、私の英語力のなさによる勘違いで、時間がないので練習は各曲短めに行おう、とのことだったのでした。それが発覚したのはステージの上でのことですが,,,
3.【全部同じで、全部違う】
「キーは全部A
コード進行は、だいたい Am -Dm -C -G- Am です」
とキーボード奏者からドイツ語まじりの英語で伝えられる。やはりドミナントコード(E7)はありません。もちろん、譜面もありません。拍子だけが伝えられ、打ち込みビートとともに練習スタート。がしかし、店のカラオケ機材が壊れてしまうのではと思えるほど、この薄暗い店の中、ハウリングおこりまくりで、なかなか曲が進みません。
ソファに深く腰掛けたまま、赤いカラオケマイクを握り少しだけ歌う帝王は、たとえるなら五木ひろしか、鳥羽一郎か、いや森進一だろうか?
鍵盤奏者の手の動きを目で追いながらなんとか合わせましたが、やはり、コードの変化は、私の耳には明確には聴こえません。そして、Gの部分は、Gを押さえていないしGコードにも聴こえません。このキーの場合、おそらくBとGの音は、微分音程になる可能性が高く、あてはまらない部分かもしれません。
しかし、ほぉっ、そこに、クルド音楽、中東音楽の謎があるのか、なるほど、などと感心している余裕もありません。二三曲なんとかごまかしつつ演奏したところで、キーボード奏者に尋ねました。
「ほんとうに、全部コード進行は同じですか?」
「そうだよ。GはGディミニッシュというか、低音はいろいろ変える。本番も近くで手を見ていたら大丈夫」
たぶん大丈夫ではないだろう。
強引にプラス思考総動員。
サズの調弦の都合もあり、同じキーが続くのはこの地の音楽の特徴でもあり、いくつかのコンサートを通じて、慣れてきましたが、それにしてもコード進行も同じとは。たとえば、ブルースもそういうものか、ブルーノートもそういうものか。うーむ、なんとか合わせるしかない!!
ふだん、各曲の歌詞の内容、曲調を表すキーやコード進行を鑑み、コンサート全体を俯瞰して構成することは、私にとっては当たり前のことです。舞台演出をすることもある自分の得意分野だという自負もあります。しかし、それは観客と演者を分ける、演者の発想にすぎないともいえます。みなで歌い踊る、たとえば「祭り」で、そのようなことはたいして意味をなさないでしょう(それもここのあとのコンサートで実感)。
そういえば、昨夏、私が催したセルダルさんや、Denge Jine Japanの小さなコンサート、あるいはネウロズの祭りでも、コンサートの後、ノリノリの音楽をかけながらみなで歌い踊ることの方がむしろ主であるような盛り上がり方でしたし、その時間の方が長かったです。
それは、これまで私が考えていた「音楽」や「コンサート」のあり方とは、正反対ともいえる姿です。演奏は、その後みなが歌い踊るためのきっかけに過ぎず、コンサートの方がむしろ前座、というか。いや、それもみんな含め、そのような空間や出来事じたいを「音楽」というのだろうか、などと思いました。
4.【フィリピンパブでの葛藤】
それでも、探り探りおぼつかない手で弾く私は、期待外れでがっかりさせているようにも思い、じょじょに心が縮こまってゆきます。
今日、コンサートに来るクルド人の人たちは、日本語がわからないままに日本にきて、不安定な言語環境で相互理解の困難に打ちひしがれる場面だって無数に経験していることでしょう。不自由に制限される立場で日常を逞しく生きる人々を見習わなくちゃ、などと奮い立たせ、なるべく不安を表に出さずに堂々と。
しかし、強制送還されるかもしれない立場の人々の境遇に結びつけ、安易な精神論で乗り切ろうとしている自分は失礼で滑稽でもあります。今日は友好の証にと、控え目にも張り切って、クルディスタンの旗の色、赤いTシャツに緑の上着、黄色い靴下も履いてきましたが,,,
フィリピン人の女主人がガラス張りの冷蔵庫を指さして、日本語で、
「あそこにあるもの好きに飲んでください」
私をよく知る人なら、アルコールドリンクを選ぶことを容易に想像できましょうが、手に 取ったのは赤と青の「エナジードリンク」の缶。あはは。
歌手のRさんも、少し縮こまってしまったようです。せっかくサズも取りに帰り、歌う気満々だったのに、翻訳アプリを使って松尾さんがトルコ語で尋ねると、スマホで翻訳された日本語で「きょう私は、演奏しないと思う」と寂しげ。たしか、「指導者」を意味する名をもつ小柄な彼が気の毒になりました。
5.【いざ会場へ】
店の女主人の夫であるクルド人男性が、蕨方向へ戻りつつ車で会場まで送ってくれました。家では、「トルコ語、クルド語、タガログ語、英語、日本語」全部よくわからない言葉を総動員してコミュニケーションしていると言い、妻とのメッセージのやりとりを見せてくれましたが、その通りでした。さらに実例をと、わざわざLINEのビデオ通話をし、「Love you」といいながらスマホにキスしますが、眠たそうな彼女は、不機嫌に軽く頷くのみで、一瞬で通話終了。
改めて彼の顔を見て、思い出しました。このカップルとは、ちょうどコロナウィルスが蔓延する直前、家のすぐそばの焼鳥屋で会ったことがあるのです。外国人が、居酒屋に客としている、しかも別国人同士がいることが珍しいことでした。どちらかがどちらかを口説いているようでした。当時、海外でコラボレーションを続けたユーラシアンオペラを、今度は自分が暮らす街からと思い始めていた矢先で、居酒屋、食材店などで、さまざまな地からの移住者や留学生から、「歌の記憶」を尋ねるインタビューをしていたのでした。
私は日本に来たときに歌手をしていたのですと、文字通り胸を張る50代にも見えるセクシーな女性は、フィリピンの第二国歌ともいわれる、タガログ語の歌を教えてくれたのでした。のちに、やはりそうやって、この街のクルド人の女子高生が教えてくれた、「クルドの娘」とともに、その曲もコントラバスで演奏しました。
6.【熱狂】
さて、会場入りの時間は、開場時間と同じ。5,600人くらいの小ホール。
クルドの老若男女、赤ちゃん、ぞくぞくと集まる中で、サウンドチェック。
まぁ、これも通常のコンサートではありえないことです。キーボード奏者が自分の手を見ながら、とさっき言っていましたが、手など見えない位置に私の機材がセッティングされていました。若干の期待はしていたものの、もちろん、想定内。そのほか足りない機材も続出ですが、本番です。
ステージの上に演奏家が現れ、舞台袖からコンサート開始を窺っていたら、促され、どうやらはじめから演奏するということ、らしい。
そうしてステージに上がってから、次の曲は何が来るのかわからないまま2時間、何曲くらい演奏したのかも覚えていないほど、必死に弾き続けるほかありませんでした。
温もりのある優しくて力強い歌唱はもちろん、コール&レスポンス、アジテーション、スーツに着替えた帝王のパフォーマンスは圧巻でした。
終演予定時間近く、腕時計を指して合図され、その曲を歌い終わった帝王は舞台から消えました。これで終わりかと思ったら、「今日は私は出ないようです」と肩を落としていたRさんが登場。良かった。先日のネウロズの祭りと翌日のイベントで3,4曲共演しただけですが、なんだかとても安心感があるのが不思議です。
再び帝王登場し熱狂してからが長かった。この最後の一曲だけが長調で、Cのキーでした。コードが変化していたのかも、もはやわからず、半ば朦朧と倒れそうになりながらC音を演奏し続ける。
演奏はままなりませんが、みなが歌い踊っている姿を目の前に、いつのまにかさまざまな葛藤は消えてゆきます。コンサートが終了すると、
ほぼ脱水状態かつ放心状態でした。
7.【友だちは俺たちだけ】
打ち上げのために戻ってきたケバブ屋には40人ほど、しばらくすると、ほぼクルド人、そしてすべて男性。なにかのイベントで見かけた方、街中で見かけ方もいます。
子育てをし、宗教的にも外で働くことが少なく、街の日常に馴染みながら暮らす女性や老人には比較的、親近感を覚えやすいです。いっぽう、仕事と家庭を往復する男性たちとの交流は、正直なところハードルが高いと思っています。だからこそ、これまで距離も感じていた、クルドの男たちの輪の中に存在できたことが嬉しかったです。
日本語ができる人が、次々とたくさんの郷土料理の説明をしてくれます。それらをほうばり、ビールを飲みつづけ、クルド語ともトルコ語とも判然もつかぬまま、異国の言葉を浴びていました。そうしてほとんど黙っていましたが、私よりは若いであろうおじさんに、
「ぼくは、みなさんよりずっと長く、子供の頃からこの街に暮らしています。残念なことに友だちはあまりいません。だからこうして、ここ、この場に一緒ににいられることが、とても嬉しいです。」
と言うと、彼は少しぶっきらぼうに、
「いいんだよ友だちは、俺たちだけでも」
と言ってからにこりと微笑む。嬉しさが滲みましたが、その言葉の意味を深く掘り下げたくありませんでした。というよりも、ただ、偶然と音楽とがこうして繋がったことの安堵に包まれたかったのです。
午前0時ごろ、ホザン・カワさんが民族の連帯を確認し合う挨拶(あとから通訳してもらいました)を述べはじめると、男たちがみな、厳しい表情になって立ち上がります。ああ、私はここでどうすれば良いのだろうと躊躇もあって、少し遅れて立ち上がりました。
8.【祭りの帰り】
お開きとなり、店外に出て、帝王や二人のミュージシャン、みなさんと握手をして別れ、駅を越えて家路につきます。よく思うことをまた思います。
民俗学者の柳田國男が「祭り」というものを説明するのに語った内容です。明治時代以降、祭りに「見学者」が現れ始めたという話です。そのような現象を、ひとつの近代的な事象として説明できるでしょう。祭りというものは、それ以前は基本的に見学者という存在はなく、ただその出来事への参加があるだけだった、ということです。
幼少の頃から私はすでに「見学者」でした。
歌うのも踊るのも好きなのに、人の中でそれをすることができない。そんなふうに、人見知りで、その群れに入ることに恥じらいを感じる自意識過剰な子供はいつの時代にだっていたとは思います。また、そういう人もいるよねと、その存在も辛うじて許されるのが、近代的個人主義のありがたさでもあります。そうして自然に人前で歌い踊ることができない私のような人間は、舞台という公的な場を与えられてようやくそれができるのでしょう。
大人になれば、観察者、傍観者という存在と自意識に虚しさも感じます。ふと、芸能者の末端にいる私は、「まれびと」の一種かもしれない、と思いました。「まれびと」はやはり民俗学者、国文学者の折口信夫のいう外来神、芸能者の起源として呼ぶ来訪者です。
私には、この街に暮らすクルドの人々も「外来神=まれびと(客人)」にも思えます。
反対に、その彼らにとって今日の自分は、「まれびと」のようなものであるのかもしれません。半ば我を失ってコントラバスを掻きむしりながらステージの上で、客席で踊り、旗を振り熱狂する人々見つめている私を、そのはしくれであると自己規定することもできるのかも知れません。
まれびと同士が友人となることもありうるのかもしれません。しかし、私も彼らも「まれびと」のようにこの街から去ってゆくことはできません。いや、私にはできても、彼らにはできないのです。
共生といえば、まず他者を受け入れる立場を考えてしまいます。しかし男たちの輪の中で、私は少しだけ「受け入れてもらった」ように思えました。それが、いわゆる友情なのか、まれびと同士の友情なのか、よくわかりません。
それにしても、私の方が受け入れてもらう側の立場と思っているからなのか、あるいは、彼らに不当な法の規制を課す国家の一員であることの申し訳なさからなのか、単なる性格か、日本語特有ともいえる謙譲語を用いて必要以上に言葉遣いが丁寧になってしまいます。もうちょっとフランクにありたいものです。
日本語を少し話す老夫が、
「あなたは、いつ、どこで、そんなに勉強したのですか?ほんとうに凄いです」と、だいぶ時間を置いて二度同じ質問しました。
気の利いた答えもできず、二回とも、正直に通り一ぺんに
「いえいえ、全然できません。これからもっと勉強させていただきます」そう答えると、何も語らず目元を緩め、ただ微笑むばかりです。
振り返るとその答えは「いま、ここ」なのでしょう。
「蕨で出会ったクルドの歌」 全文はこちら
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