「頭痛肩こり樋口一葉」音楽制作メモ
歌の来し方と父の幻聴〜明治まで歌を遡って〜前篇 河崎純(2025 11,22)
井上ひさし作、川口典成演出「頭痛肩こり樋口一葉」で音楽を担当します。
会場の新宿「歌舞伎町能舞台」は、ホストクラブSmappaGroupeが運営しています。幕末から明治、大正、昭和、東京の下町や花街、現在の歌舞伎町、歌のありようを求めながら作曲しました。
明治に遡った歌の記憶、一葉が生きた時代の音楽文化、そこからどんな歌が生まれるのか。
歌声と音を想像しながら読んでいただき、本番(12/1~14)を楽しみにしてもらえたら、嬉しいです。
前篇
0 「一葉ソング」作曲にあたり
◾️ 戦さのにおい
◾️ 歌の来し方を求め
1 明治からの記憶 祖父母たちの歌声
◾️ 最古の記憶を宿す声
◾️ 父の幻聴
◾️ 祖父母たちの歌声
【富山県魚津出身の父方の祖父母】
【山梨県南部町出身の母方の祖父母】
【復員兵たちの歌声 昭和20年代】
0 「一葉ソング」作曲にあたり
◾️戦さのにおい
貧困と家督相続の抑圧のなか、東京下町周辺の人々の暮らしを繊細に筆で描いた樋口一葉は、25歳で亡くなりました。井上ひさしによる戯曲では、夏子(一葉)、老いゆく母、妹と、新盆に樋口家を訪ねる人々、かつて吉原の遊女だった幽霊と、女性のみが登場します。幕末から維新という時代の大転換を経て、日本が国際社会の動乱に参入してゆく時代、明治23〜30年(一葉19歳から没後2年)の樋口家を舞台とする、歌物語です。
ラジオもレコードもない時代ですが、明治になると民衆の音楽文化も変わってゆきます。当時4年間だった義務教育の唱歌に洋楽が取り入れられ、ラップのように歌う自由民権運動の書生節、政府主導で作られた国威を促す歌や軍事歌など、新たな歌が広まります。
国民国家体制の礎が築かれ、次の大転換点の太平洋戦争終戦に至る時代です。
戦後民主主義の綻びを鮮明にする昨今の世相から、終戦で分断しえぬ戦前、戦後の連続性を感じます。
戦ばかりだった明治、大正、昭和初期は別世界ではない。そのことを強く意識しながら、歌や楽曲を創作しました。
◾️ 歌の来し方を求め
本作「頭痛肩こり樋口一葉」含め、井上ひさしと組んで音楽を作ってきたのは、宇野誠一郎でした。「ひょっこりひょうたん島」(1964年〜)のテーマは有名です。
昭和50(1975)年生まれの私も、知らぬ間に、テレビアニメ音楽で宇野先生の楽曲を耳にしていました。大好きだった「山ねずみロッキーチャック」のオープニング曲や、「一休さん」のエンディング曲も、あらためて作曲家の視点で聴くと、言葉と旋律の関係の豊穣さに心が震えます。幼心に刻まれたメロディが、今もふと甦るのですから、私にはかないません。
宇野楽曲という「原曲」を前提に、新たな曲を作ることは、想像以上に高いハードルでした。
しかし私なりの視点で、幕末に遡って「歌の道」を辿りながら、新たな歌を作り始めました。
私はこれまでも、国民国家が成立する近世と近代の狭間に着目し、人と歌や音楽との関係を探ろうと試みてきました。
私たちは、国民国家と資本主義によって生み出された文化を享受してきたといえます。学校で教えられる「歌う(歌わされる)」音楽と、市場とメディアにのって展開される「聴く(聴かされる)」音楽です。
しかしふりかえると、私が作ってきた音楽は、いつもそれらとは「別の道(歌)」を探し続けているようでした。
たとえば、メディアを介さないローカルな歌の伝播や口伝に、歌の本質を求めようとする気持ちがつねにあります。今回とりわけ、録音技術が誕生前夜を背景とする創作にあたり、より強くそのことを意識しました。
まず、もっとも古い直の歌声を求め、明治生まれだった祖父母との記憶をたどってみました。
1 明治からの記憶 祖父母たちの歌声
◾️ 最古の記憶を宿す声
「ええこじゃよ、ええこじゃよ」
富士の麓の農家の縁側で、幼子の私をあやす、子守唄のように節づいた声。
私が耳にした、最も古い記憶を宿す人間の声は、昭和53年、私が3歳のときに老衰により94歳で亡くなった、今から約140年前、明治18年生まれの、母方の曽祖母の声。
目立った病気はなかったらしいですが、「こんなものが出たよ」と、見覚えのない真っ黒な細い大便が出たことを、同居の祖母に告げて未明、布団の中で息を引き取っていたそうです。
「小さいおばあちゃん」と呼んでいた曾祖母の声の唯一の記憶ですが、写真を見せながらその場を再現した母の声かもしれません。しかし私は、やはり母の声とは違う声の記憶として、この子守歌を脳内に甦らせることができます。
よりはっきりと古い記憶を宿す歌声は、その後いくばくかの時を一緒に過ごした、祖父母のよるものでしょう。
思い出しながら書き留めようと思いますが、その想いをより強くさせたのは、父の不思議な聴覚体験の告白でした。まずはそれについて書きたいと思います。
◾️ 父の幻聴
昭和14年生まれで今年86歳になった父は、視力、聴力が著しく低下しています。音量を増せばテレビやラジオの音楽をなんとか聴けるが、歌の旋律が変調して「音痴」に聴こえ、だれが歌っているのかも判別しにくいとのこと。「音楽が楽しめないって、ほんとうに情けないもんだぞ」と落ち込みます。
さらに困っているのは、愛着のない歌が唐突に耳を襲ってくることです。
なんの歌が聞こえてくるのか尋ねました。
たとえば、出身大学の早稲田ではなく慶応の応援歌「若き血」。父は学生運動や演劇に明け暮れ、野球の「早慶戦」などに行くこともなかったと思われます。そもそも父は、国、民族、学校や会社など、コミュニティにたいして無条件な愛をもつことを、忌避するような人物です。
それ以上に耳内に響き続けるのは、「東京音頭」と、育った東京の下町とも縁のない、兵庫県の丹波民謡「デカンショ節」。
とくに後者は、なかなかのロングヒットで、もう一年間くらい、「デカンショ」や「ヨーイヨーイ」という掛け声が、近づいたり遠ざかったりして無限ループされるのだといいます。
丹波篠山山家の猿が(ヨイヨイ)
花のお江戸で芝居する(ヨオーイ ヨオーイ デカンショ)
このような現象を、父は痴呆と関連付けて慮るので、耳鼻系あるいは脳神経系に由来するのか調べました。判断は難しいですが、推し量ると、「難聴」にたいする補正現象の一種であるかもしれません。
小気味よいリズムの音曲がリピートされるのは、その症状の典型でもあるそうです。愛着がなくとも、この世代の日本語母語者なら、「〜〜節」や「〜音頭」などの曲はありうるとAI。
私ならば、と思うと、やはりなんとなく見ていたテレビアニメ、たとえば「Dr.スランプ アラレちゃん」や「サザエさん」などのオープニングテーマのイントロかもしれません。
父はたまに予期せぬ「新曲」も現れると、いいます。
その苦しみは理解しようがないですが、最近は試行錯誤の上少し制御する方法も覚えたようで、今際の際で何が聞こえるのだろう、と冗談めかして言うこともあります。
父にとってプリミティブな歌の記憶の古層といえるのかもしれません。
さらにそれを求め、祖父母の歌声を思い出してみます。
◾️ 明治からの記憶 祖父母たちの歌声
父方、母方、それぞれ今から3、40年前、私が小学生〜25歳くらいまでの間に死んでいます。今年90歳になった母が4名の干支を覚えていたので、生年を算出すると、みな明治末期の35〜42年あたりの生まれになります。今生きていたら120歳くらいでしょうか。
父母にも尋ねながら遡りましたが、祖父母の歌のエピソードは多くありません。私が宿す、父方、母方双方のの記憶を絞り出してみます。
【富山県魚津出身の父方の祖父母】
祖父は大正時代に同郷を頼り東京に出て、戦前から運動具店を創業しました。おそらく祖母も近い時期に東京で職を求めたのでしょう。同郷人どうしで結婚し、千駄木や上野御徒町辺りに居を構え、次男の父を含め、三人の子供を育てました。
戦後、高度経済成長期に成長し、一般にも名の知られるテニスラケットメーカーになりましたが、私が小学生のころ倒産しました。それでも、晩年は、比較的裕福な余生を、不忍池の畔のマンションで送っていました。
私が暮らす埼玉南部の町から遠くないので、日帰りで日曜日に訪ねるのが常でした。帰りしなの名残惜しい頃、テレビで「家族歌合戦」が必ず流れていました。そこで歌われる、ディック・ミネと星玲子がデュエットで歌ってヒットした「二人は若い」(昭和10年)でした。
少ししゃがれた声で祖母が一緒に歌っていました。
あなたと呼べば あなたと答える
山のこだまの 嬉しさよ
あなた なんだい
空は青空 二人は若い(作詞:サトウ・ハチロー作曲:古賀政男)
いわゆる「懐メロ」。父の兄が、第一子として生まれた頃の歌です。喧嘩の多い夫婦だったようですが、いま思うと、微笑ましい光景の断片です。
祖父の書斎には、広沢虎造などの浪曲(浪花節)のカセットテープが亡き残っており、没後に私が引き取りました。
1899(明治32)年生まれの2代目虎造は、大正15年のラジオ放送開始により人気に拍車がかかります。祭文、門付諸芸や説経節から成立した浪曲は、明治期に大道芸から寄席芸として発展し、レコード、ラジオでさらに広まりました。しかし戦後のテレビ芸としては馴染まず衰退したようです。
祖父の人生の伴奏のようにあった唸り声を、晩年になって懐かしんだのでしょう。
「明治大正の歌」というカセットテープもありました。浅草の寄席に行ったり、街頭も含め、戦前戦後のラジオ全盛期の音楽を受容してきたのでしょう。私が小学高学年の頃、散歩に連れられ、上野の不忍池畔の「下町民俗資料館」に行き、帰りに「みはし」であんみつを食べたのが、平成元年、私が中学一年の時亡くなった最後の祖父との思い出です。
人生の大半を東京で生きた祖父ですから、土着の民謡は、暮らしの中にはなかったのでしょう。職人でも経営者でもあった祖父は、故郷の暮らしと分断されていたたはずです。
いっぽう祖母は、会社に携わりながらも、主婦でもあり、親戚付き合いもしました。祖父と違い、暮らしにいきづく原初のリズムが体内に残っていたのか、故郷の富山民謡を、家事をしながらよく口ずさんでいました。家内で問題があると、小さな仏壇に向かって早口の小声で「なんまんだぶなんまんだぶ」と唱えていた声も思い出すことができます。
よく耳にしたのは、有名な「こきりこ節」や「といちんさ」です。民芸品として購入したのでしょうか、こきりこの「ささら」もあり、私も今でも歌うことができます。
といちんさ といちんさ
といちんといちん といちんさ
ひらひら おちるは 桜の花か
といちんさ といちんさ
家の廊下をいそいそと歩きながら調子よく口ずさむ「といんちんさ」は謎めいていました。
調べると、江戸時代〜明治初期にかけて富山で広まったわらべ唄のようで、「といんちんさ」は子供をあやす呪文のような無意味語で起源も不明なようです。
遡ると農漁村の若い男女の遊び歌としても歌われ、春歌的な解釈もできそうです。
祖父母の出身の魚津といえば、大正7(1918)年の米騒動が、重要な民衆抵抗史としてしられます。
明治末〜大正期には、富山平野の米を大阪・東京などへと出す主要な積出港だったため、買い占め、積み出しが住民の目に見えやすかったそうです。第一次世界大戦景気で物価上昇し、前年の2倍に達する地域もありました。男性が漁で不在がちなので、女性が抵抗の中心者だったことが特徴です。
その年、明治37年生まれの祖父は14歳、44年生まれの祖母は7歳。
富山は元々、明治期にも米騒動があり、貧困脱却のための東京への人口流失もあったのでしょう。先に故郷を離れた親族を頼り、祖父母も上京したのでしょう。
晩年は通販で、故郷の食材も取り寄せていました。嫁である私の母も覚え、いまもレシピが残っています。残るのはやはり、歌より食でしょうか。
【山梨県南部町出身の母方の祖父母】
それぞれ明治42年、43年生まれの、母方の祖父母についても、残念ながら歌の記憶は少ないです。
富士の麓の貧しい山村です。
東京で人生の大半を過ごした父方の祖父母と異なり、ラジオや街頭で音楽を受容する機会は少なかったと思われます。静岡弁と甲州弁が混ざったような言葉で話しており、「だらしなく」歌うような長閑な響きが印象的でした。
私が記憶する祖父母の歌声は、土着の民謡ではなく、学校で教えられる唱歌や童謡です。
明治40年に、4年間から6年間に改正されたという義務教育に関する学制によると、諸費は自己負担だが授業料は無料です。
山梨県のデータによると、山間部においても、すでに7〜8割の通学率が推計されます。貧農地域ですが、いわゆる「本家」だったり、寺子屋のような「裁縫学校」も兼ねていたという事情から、おそらく祖父母にも通学の経験があったと思います。
祖父母が受けたであろう大正初期の唱歌教育では、明治期の愛国、軍事、道徳歌が減少し、情操、芸術性が重視されます。
高学年になると「海ゆかば」などの国家忠誠に導く曲や、外国曲も加わりますが、低学年期では、「故郷」「とんび」「牧場の朝」「五木の子守唄」「野ばら」「ローレライ」「埴生の宿」「浜辺の歌」「早春賦」など、今も親しまれる曲が、新たに加わっています。
私は、春、夏、冬の長期、学校の長期休暇時は祖父母の家で過ごしていました。
晩年は片手に麻痺の病があった祖父が野良仕事をしている記憶は薄いです。口数の少ない祖父から歌声を聞くことはありませんでしたが、なにかのおりに「おててつないで のみちをゆけば」と小さな掠れ声で歌い出したのを、意外だったのか、はっきりと覚えています。
お手(てて)つないで 野道をゆけば
みんな可愛(かわ)い 小鳥になって
唄をうたえば 靴が鳴る
晴れたみ空に 靴が鳴る(「靴が鳴る」作詞 清水かつら 作曲 弘田龍太郎)
東京は板橋区あたりの田園風景での野遊びの様子が歌われます。学校唱歌らしい旋律なので、耳覚えがよかったのでしょうが、まだ当時の唱歌教育には採用されていません。
大正8年に童謡として作曲され、雑誌『少女号』に発表されたようですが、いつどこで祖父がこの「新曲」を習い覚えたのかは知る由もありません。
4人の祖父母の中で、口数による交流の少なさもあり一番印象が薄い人物でした。一番早く死別したのもこの祖父でした。私が小学校6年の夏休みでした。近隣の富士宮市の病院に短期間入院し、そこで死にました。
富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ
富士のサイサイ 白雪ゃ朝日でとける(そりゃ)
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ
とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ
母が埼玉から通いつめていたのですが、亡くなる前夜、東京方面に戻れる電車に間に合うよう帰ろうとすると、祖父が唐突に歌い出したので驚いたそうです。夜遅くに病院から埼玉のマンションに戻った母がそのことを話し、午前零時をまたいで、旧盆の深夜に亡くなりました。
母が再現したその歌声もまた、やはり老父の掠れ声で聴こえてきます。
調べてみると、その歌にはこんな由来がありました。
元歌は静岡の三島の盆踊り唄や地唄で、江戸時代末期に幕府の軍事教練所で歌われていたそうです。長崎から赴任した教官がそれに西洋式を取り入れ、「農兵節」として街道に広まったそうです。「ノーエ」というのは、労働謡によくある掛け声です。人気芸妓・赤坂小梅の歌でレコード化され、全国的にも知られたのは昭和9(1934)年です。その翌年に、第一子である母が生まれています。
人生のほぼすべてを富士の麓の山村で過ごした祖父ですが、農業を嫌い、この時期、静岡市に出て洋服の仕立て屋を営んでいました。駒形という繁華街に近い場所ですから、街頭のラジオからこんな曲が流れることもあったかもしれません。空襲が重なり、疎開で山梨に戻りました。
除隊による復員後から晩年まで農業を営みました。田舎の野遊びに飽きた私が、野球のバットの代わりになるものはないかと土間の横の農具庫をあさると、錆びついたたミシンが転がっていたのを覚えています。
四人の祖父母のなかでも、私が一番親しみやすかった祖母は、よく喋る社交的な人物でした。といっても集落の内部に限ります。洋裁を学ぶために親類を頼って、横浜で過ごしたことがあるようですが、詳しくはわかりません。
畑仕事や家事の合間に訪ね行く場所についていったり、遊んでもらうこともありました。そんな時にもよく歌っていたような気もします。
しかしかえって歌声の記憶は薄く、思い出せるのは、スピーカーから流れ、夕空の山々に木霊する、「夕焼け小焼け」のメロディにあわせて歌っていたことくらいでしょうか。この曲は関東大震災が起きた大正12(1923)年に発表されています。
【復員兵の歌声 昭和20年代】
祖母が90を過ぎて亡くなり、空き家になってからもう25年ほど経ちます。
朽ち果てた家屋の近くには、小さな祠と舞台付き神楽殿のみの、「氏神さん」と呼ばれていた小さな神社が、山の麓の田畑のなかにありました。
GoogleMapのストリートビューで確認したらまだあるようです。正式名称は確認できましたが、祭祀の由来もわかりません。
私の少年時代には、箒やら農具やらが散乱する物置小屋の風情でしたが、小さな秋祭りくらいはやっていたのかもしれません。しかし「秋休み」がないので、毎年それなりに長く過ごしたこの土地の、秋の風情を、私は知りません。毎年その頃になると田舎から送られる段ボール箱を覗き、よく遊んだ盆の頃には青だったのが、こんなに赤く色づいたのかと、柿の木のある小さな庭の前にある、山々の姿を思い浮かべるだけでした。
祖父母が何か歌っていたか、母にも尋ねましたが、具体的なものは出てこないので、集落の人々についてはどうかと聞き直しました。
10代だった母が祖父母と同居していた昭和20年代は、この「氏神さま」の小さな神楽殿で、年じゅう宴があったそうです。
集まるのは主に青年団的世代。生き残って復員した若い男たちによる歌は、貧しい農村の数少ない娯楽だったでしょう。終戦後の当時、すでに40を過ぎていた私の祖父母世代が、そうした「若者組」の宴に出向くことはなかったそうです。
そのような宴は、若い男女の出会いの場として機能したであろうし、時代を遡れば、その建物は年長者からの性指南やら、閉鎖的山村生活における「寄り合い」の場だったでしょう。
山梨県は、現在にもその習慣が残るほど「無尽」が盛んな地です。それは「無尽講」や「頼母子講(たのもしこう)」と呼ばれ、一定期間ごとに金品を拠出し、順番に融通しあう村の相互扶助制度です。
町史をみると、山村は現金収入が季節的で不安定なため、より強固に機能したようです。祭礼準備、夜警などをおこなう「若者講(若者組)」、出産や布団作りの「妻女講」、行事準備、山の神・道祖神と結びついた「庚申講」などが連動します。こうした互助会の余暇に、都市の流行歌なども共有されたのでしょう。都市への人口流出もあり、昭和40年代までには衰退したようです。
「トコトンヤレトンヤレ」
埼玉のマンションで、家事をしながらときどき母が口ずさんでいた小気味良いフレーズです。その一節しか聞き覚えがないのですが、「宮さん宮さん」という歌のなかのものだとのちに知りました。
井上ひさしの台本にはかかれていませんが、今回の舞台の創作モチーフの一つにしたので、後篇にて言及します。
「とことんやれ とことんやれ」
幕末の討幕派による軍事歌的内容で、日本初の軍歌ともいわれます。Youtubeで母に聞かせて、どこで知ったのかと母に尋ねました。
その歌こそ「氏神さん」の宴でよく歌っていたよ「ほんとによく、太鼓叩いて歌っていたよ、〜兄さんや〜兄さんたちが、もうみんな死んじゃったけれどね」と個人名を挙げながら思い出してくれました。戦後まもなくの頃です。
Youtubeで次の候補に出てきた「ラバウル小唄」を聴かせると、それも歌っていたよと。終戦直前の1944年にレコード発表された戦時歌謡ですが、南方からの復員兵によって歌われることで広まった曲のようです。
さらばラバウルよ 又来るまでは
しばし別れの 涙がにじむ
恋しなつかし あの島見れば
椰子の葉かげに 十字星(作詞 若杉雄三郎、作曲島口駒夫)
南洋の戦地を「井出の駅」と歌詞を替えて歌っていたそうです。この地域から従軍した人々が、見送られて出征した最寄り駅です。富士川を越えたところに佇む、私が子どもの頃にはすでに無人駅だった身延線の駅。
戦後すぐ、母が学生時分もまだ、渡し船で川を渡ったそうです。そもそも集落から駅までは徒歩1時間。さらに川を渡り電車に乗って、身延の高校に通ったが、体力的にも諦めた母の学歴はそこまでになります。ときどきの過去の縁を大事にしてきた母が、高校時代の交遊だけはまるで隠すように話さないので、ずっと不自然に感じてきました。これまで、なんとなくその理由を聞かずにいました。
いつの間にかそういうこと(宴)はやらなくなっていたね、私もじきにここを離れていたからよく知らないけれど、と母は言います。
さて、いま生きていれば120歳くらいの祖父母たちが身体に宿した歌について、思い出せたのはこの程度でした。
さらに遡れば、たくさんの古い俗謡や労働謡や民謡も、仏教的な和讃や御詠歌的なもの、山岳信仰にまつわるものも、祖父母の体内には蓄積されていたのでしょう。しかし直接尋ねることも叶わず、生きている父母の記憶も薄れています。
現在にも残る各地の芸能や祭事も興味深いものですが、私にとってはむしろ、こういったたわいもない風景が、歌の泉であり、その本性を感じます。そこから想像したり調べたりしながら創造するものが、私の音楽です。
明治5(1872)年生まれの樋口一葉の生涯、および「頭痛肩こり樋口一葉」に描かれる近世と近代の狭間へとさらに遡って、現在と私自身へと接続するために、こうした直の記憶による段階を踏まえておくことが必要でした。
さて、一葉がいま生きていたら152歳。明治29(1896)年、24歳で早逝した一葉の耳にはどんな音曲が鳴り響いていたのでしょう。それを想像しながら、「一葉ソングス」を新たに創作してゆきます。
2 「夢のない歌」一葉の時代まで歌を遡る
◾️ 「一葉ソング」の歌い方について
◾️ 一葉に歌をたずね
【わらべ唄と仏さま 「ぼんぼん盆の十六日に」】
【明治に歌われた江戸の音曲「一かけ 二かけて」】
【戦歌のはじまり「宮さん宮さん」】
【放歌罪 大声で歌ってはなりません】
【国家が与える歌 軍歌と唱歌】
【四曲の蛍歌について 「ほたるこい」】
【一葉が女学校まで通っていたら】
【軍歌「蛍の光」】
3 おわりに 歌舞伎町にて
◾️ 歌舞伎町にて
◾️ おわりに