Biologia Music   Jun Kawasaki
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「頭痛肩こり樋口一葉」音楽制作メモ  

 

歌の来し方と父の幻聴 〜明治まで歌を遡って〜

後篇 「夢のない歌」一葉の時代まで歌を遡る

 

 前篇では、明治生まれの私の四人の祖父母が宿した歌の記憶を遡りました。

後篇ではさらに一葉が生きた時代の音楽文化にせまります。

 後篇

2  「夢のない歌」 一葉の時代まで歌を遡る

◾️ 「一葉ソング」の歌い方について

◾️  一葉に歌をたずね

【わらべ唄と仏さま 「ぼんぼん」】

【明治に歌われた江戸の音曲「一かけ 二かけて」】

【戦歌のはじまり「宮さん宮さん」】

【放歌罪 大声で歌ってはなりません】

【国家が与える歌 軍歌と唱歌】

【四曲の蛍歌について「ほたるこい」】

【一葉が女学校に通っていたら】

【軍歌「蛍の光」】

 

3 おわりに  歌舞伎町にて

◾️ 歌舞伎町にて

◾️ おわりに

 

◾️ 「一葉ソング」の歌い方について

 

井上ひさし戯曲を演じる「こまつ座」での楽曲の歌い方とは違い、俳優が役柄のキャラクターを維持したまま歌わないことを想定しました。歌の場面ではいったん役の性格を離れ、まず俳優自身の声で歌ってほしいとお願いしました。

 

明治2、30年代を生きた女性たちを通して演じられるべきは、現在です。役の感情や性格をリアルに演じて歌うと、その点が曖昧になってしまいます。ドイツのベルトルト・ブレヒトの音楽劇の歌唱方法にならい、登場人物をめぐる歴史的・社会的状況をなるべく、旋律に再現しようと試みました(私のいつもの作曲法ですが..)。

 

蛇足ですが、二つの世界大戦と冷戦期のなかで新たな演劇理論を構築したブレヒトの生年は、1898年、明治31年です。25歳まで生きた一葉の死後2年にあたります。

 

ですから、一葉19歳から死後2年の8年間が舞台となるこの物語が始まる、明治23年時点での登場人物の女性たちの年齢と、出身、社会的立場等の情報を整理します。

 

<登場人物>

 

多喜(一葉の母)

57才

推定生年:1833年(天保の大飢饉)

山梨の農民として育ち、夫と駆け落ちして江戸に出る。幕府直参の下級士族になるがすぐに明治維新に。夫は大政奉還後、士族として俸禄を得るが不安定。一葉の進学に対しては、女子教育の必要なしと反対。未亡人となり、貧困の中二人の娘と暮らす。情に熱く士族としての見栄による散財もあったが、内職仕事に精を出す。

 

夏子(=樋口一葉)

19才

1872年(明治5年)

東京生まれ。小学校卒業後、進学を望んだが断念。学問や教養を諦めきれず、和歌の私塾にて旧体制名家、新政府の政治家・軍人の夫人や令嬢に混ざり学び、下働きした。文才をあらわすが、父の死去の後、相続戸主となる。師事した作家半井桃水への恋心を断つ。生活苦の中、内職、雑貨店経営、文筆業を兼ね、頭痛、肩こり、近視に悩まされつつ小説を書く。

 

邦子(一葉の妹)

17才

姉の文才を認め、身体の弱い姉に協力的。内職仕事に精を出し、老いた母と共に家計を支える。

 

鑛(こう)

34才

推定生年:1856年

おそらく江戸生まれ。下位の武士階級である旗本の娘。かつての乳母だった多喜を慕い、毎年の盆に樋口家を訪ねるが、夫の事業がことごとく失敗し、生活は苦しい。

 

八重(架空のキャラクターとされる)

23才

推定生年:1867年(大政奉還し江戸から明治へ)

おそらく東京生まれ。旧幕府側の気骨ある武士の娘。父は戊辰戦争中のなか、上野の山で薩長軍と激突し、討ち死に。兄の私立小学校経営を手伝う。体制に日和らぬ兄と共に理想教育を目指すが、反体制とされ監獄に入れられ、生活は苦しい。兄の自害後、運命は激変。

 

花蛍

27才(幽霊)

推定生年:1863年

出生地不明。夏子(一葉)に死の匂いを嗅ぎつけ、毎年お盆に現れる。樋口家を訪れる、生前は吉原の遊女。

 

いっぽう世の中は1894(明治27)年、その300年前に秀吉の朝鮮侵略以来、日本が参入した国際的な対外戦争である、日清戦争を迎えます。23歳の一葉が、花街吉原近くの下谷で荒物、駄菓子店を営みながら、「たけくらべ」に庶民の子らを描きました。 

 

下町を舞台に、出自や時代、男にも弄され、その後の彼女たちには、さまざまな運命が待ち受けています。彼女らの生をを弄する根本はなにか、ということが戯曲のテーマになります。

 

◾️  一葉に歌をたずね

 

これから紹介する戯曲にまつわる当時の音曲を、現代風にアレンジすることが、創作の目的ではありません。民謡、俗謡、唱歌や童謡、あるいは軍歌や国歌。

 

そのような時代に、歌を歌わずには生きてはこられなかった人々と世に尋ね、いま私自身が直面している「現在」との接続を目指します。そこから新たな歌が生まれることを願って。

 

【わらべ唄と仏さま 「ぼんぼん」】

 

まずは、物語を通底する「盆歌」。宇野先生の楽曲とは異なり、私は冒頭の

 

 ぼんぼん盆の十六日に

 

というフレーズだけは、当時の子どもたちが実際に歌っていたとされる童歌の節を残しました。

 

盆唄は、精霊(死者)を迎える盆提灯をもち、街路を練り歩く行列歌で、日本各地にあります。「花いちもんめ」のように、対戦型の遊び歌のように行われた地域もあるといいます。東京の深川あたりでは、江戸時代から行われていました。明治末〜大正期にかけて定着しましたが、1940年代に入り、戦間期の灯火管制などにより消滅したそうです。

 

閻魔や地獄といった世俗仏教の世界観が色濃く現れます。江戸時代は、武士には儒教で忠孝を、庶民、農民に仏教を奨励し、管理下におきました。納めさせ、抵抗させないためには、仏教的な倫理観や死生観が必要で、簡単に言えば、死んだら極楽浄土に行けるので、生きている間は真面目に我慢しなさい、ということです。

 

新時代の明治は、廃仏毀釈を行い、寺を破壊し神社を復興させ、神道を体系化して天皇の下に新たな国家観の形成を試みます。

 

しかし実際には、長い間人々の暮らしや死生観に染み込んだ仏教要素を排することは不可能で、習俗の多くは黙認されます。

 

旧暦(太陰暦)から、国際基準である新暦(グレゴリオ暦)への改暦により、旧暦7月に行われていた盆は、都市部では日付をそのままに7月(旧暦6月頃)に、農村部では、農繁期を避けて8月に行なったといわれます。

 

私が冒頭の一節のみ、童歌の節をそのまま用いた理由は、これが、自然発生的な旋律だと思われたからです。

 

反対に、「作られた」歌の場合、一般的に定拍(同じ拍子が継続)的になります。しかしオリジナルの記録にあるような不規則さにこそ、子供の遊びや歩行の息遣いが感じられます。ストーリーを通底する幾度も登場する曲なので、シーンの年代の出来事に応じ、解体、再構築しながら歌を変容させました。

 

本来の「ぼんぼん」は、童歌でありながら、仏教的な、しんみりと愁う旋律です。

 

【明治に歌われた江戸の音曲「一かけ 二かけて」】

 

しかしこの時代の歌は、そのような静かな歌ばかりではありません。

 

各地の労働謡の一部は宴席で歌われる座敷歌になって定着します。江戸の都市文化、色街で歌われてきた小唄や端歌は、新政府には旧時代の下品な文化みなされますが、歌い継がれ、鉄道や通信による往来がさかんになって、全国に愛好者の幅を広げます。たとえば行商任、富山の薬売りなども歌を広げる一助となったでしょう。

 

戯曲で多く引用されているのは、手合わせやお手玉の遊び、手毬のわらべ歌です。これもその一つである数え歌です。舞台では、幽霊の花蛍が生前遊女だったときに座敷でよく歌っていた歌だとして。物語進行の鍵を握ります。

 

一かけ 二かけて 三かけて

四かけて 五かけて 橋をかけ

橋の欄干 手を腰に

はるか彼方を 眺むれば

十七八の 姉さんが

花と線香を 手に持って

 

若い娘が西郷隆盛の墓参りに行くという内容を持つ全国的に広がった歌です。

 

新政府の中心にあった西郷隆盛は、明治6(1873)年ころ、征韓(朝鮮出兵)を主張しますが、国家の未整備のため時期尚早とされ、失脚します。薩摩に下野し、下級士族の精神的支柱となり、明治10年に西南戦争を率いて抵抗しますが、自刃。

 

新政府は、反乱の首謀者として逆賊視しますが、その官僚体制に抵抗心をいだく、農民・旧士族・地方民の感情と共鳴し、英雄視されます。後には維新の偉人として公的に再評価され、上野の山に銅像も建ちます。

 

ですから当時、西郷をモチーフにした替え歌や、文芸が多く生まれ、人気を博します。「西郷ソング」の流行は、時代の転換期にともなう社会的な立場が変わって不安定な民衆の、複雑な感情の表れだと言えます。

 

戯曲でも、明治になって下級士族となった母多喜や、かつて多喜が乳母として世話をした旧旗本の娘の鑛(こう)が歌う「世が世であればソング」というオリジナル曲があります。

 

「一かけ 二かけて」は江戸遊郭の遊び歌が元歌とされます。「かけうた」は、遊女や客が数字や掛け声に合わせて歌う節回し。

 

一葉の「たけくらべ」や日記からも、有名な「梅は咲いたか」「お江戸日本橋」など、吉原界隈で歌われていたたくさんの端唄や俗謡が聴こえてきます。それらだけでなく、学校帰りの子どもたちが行列をなして、おそらくは習い覚えた唱歌や童歌をうたったり、祭りで木遣唄がうたわれたりし、唄にあふれています。

 

吉原界隈は音楽の都だったのか、と思えるほどに、歌声溢れんばかりです。

 

多くの歌は替え歌にするのが容易なシンプルな節です。それを競うように楽しんだのではないでしょうか。江戸の遊里の歌は、維新の世相歌となり、子供の遊び歌や軍歌のモチーフにもなります。

 

今回「一かけ 二かけて」は私は作曲せず、原曲をもとにしました。この曲を歌う幽霊の花蛍を江戸糸操りで演じる、海老沢栄さん自身に編曲してもらいました。人形をギタレレにもちかえ、70年代フォーク調で歌います。

 

【戦歌のはじまり「宮さん宮さん」】

 

こうして歌が広まる役割を果たしたのは、ほかに、明治6(1873)年に、国民皆兵による国防を目的に交付された、徴兵制度による兵役です。

 

戦時に向かって、軍事的内容が色濃くなります。兵役期間に歌う、軍事曲、日々鳴り響いて体に刻まれる進軍ラッパや隊列行進のリズム。また、他地域出身者同士が歌を教えあい、それが帰省先の故郷の人々に広まります。

 

以前調べたところによると、ロシアの民族音楽における、帝政末期のバラライカやアコーディオンの広まりもそうでした。民謡にそのような和声の伴奏楽器がつくことで、歌自体の調子も変容します。

 

江戸時代は国内において戦らしい戦はありませんので、そのような歌もありません。ようやく幕末に日本初の「軍歌」が生まれます。

 

母が鼻歌まじりに「トコトンヤレトンヤレナ」と口ずさんでいたことを機に知った曲ですが、祖父母の記憶に関して書いたように、戦後の宴でも歌い継がれた曲でした。

 

「宮さん」は新政府の象徴である皇族を意味します。

 

宮さん宮さん お馬の前に

ひらひらするのは何じゃいな

トコトンヤレトンヤレナ

あれは朝敵征伐せよとの

錦の御旗じゃ知らないか

トコトンヤレトンヤレナ(作曲 大村益次郎)

 

江戸芸者による軽快な「お囃子」を、戊辰戦争を主導した倒幕側の長州の軍人、新政府において「日本の近代軍制の創始者」ともいわれた大村益次郎が、戦時に重ねて改変した曲という説もあります。敗れた幕府側の歌では会津藩の少年兵の「白虎隊」の悲劇の歌が、戦後の演歌にも歌い継がれるモチーフで、現代も好まれています。kiina(氷川きよし)もよく取り上げています。

 

「宮さん宮さん」は、オペレッタ「ミカド」やプッチーニの「蝶々夫人」にも現れ、現在でも落語の出囃子によく使われます。土着的で軽快なリズムなため、先ほど私の母の記憶でふれたように、戦後まで愛されました。

 

台本にはありませんが、戦争に対する民衆心理の高揚をあらわす象徴的な曲として、いくつかの曲の中に引用しました。

 

【放歌罪 大声で歌ってはなりません】

 

いっぽう自由民権運動が高まると、社会への批判と皮肉を込めた、壮士演歌も人気を博します。ラップのようにアジテートした川上音二郎による壮士劇の一座の「オッペケ節」です。

 

今回の戯曲には登場しませんが、3年前の暮れに本作同様に演出の川口さんと創作した、この夏に逝去された福田善之作「オッペケオペ」で取り組みました。自由民権論者がいかに、日清戦争を賛美する戦争劇を演じるようになったか。

 

時代も重なり、今回の創作でも、常にその裏側では、オッペケの三三七拍子のリズムが鳴り響いており、俳優の台詞の背景に潜ませました。

 

ままにならぬは 浮世のならい飯(まま)になるのは 米ばかり

ア オッペケペーオッペケペッポー ペッポッポー

権利幸福きらゐな人に自由湯をばのましたい

オッペケペ オッペケペッポーペッポーポー

 

1900(明治33)年に、一座のヨーロッパ公演中にイギリスで録音されたこの曲のSPレコードが、日本人の声の最古の録音になります。Youtubeにもあります。

 

こうした民衆の歌文化に対する、政府の規制もありました。放歌罪です。

 

前時代の文化における「放歌高吟」を禁じます。江戸時代、とりわけ町人の労働謡なども含めよく大声で歌ったのだそうです。つまり街中で、でかい声で歌うのは、下劣な行為だから取り締まります、ということです。

 

【国家が与える歌 軍歌と唱歌】

 

いっぽう国家が民衆に与えた歌といえば、国威発揚の歌、軍歌、教育における唱歌です。

 

日清戦争が近づけば、勇ましい軍歌、あるいはすでに銃後を支える女性のための歌もつくられ、それらがさらに教育の現場にもたらされます。現在国歌となっている「君が代」もその一つです。

 

放歌罪が生まれた契機には、明治の初めに日本に招かれた多くの「お雇い外国人」が、「放歌高吟」を奇異に感じたことがあります。「君が代」の実質的な作曲者はドイツ人フリードリヒ・エッケルトです。明治13(1880)年に、初等教育用に導入され、朝礼・式典などで歌うことを想定して導入されました。一葉が小学校に通っていた頃です。

 

さまざまな編曲がありますが、1890(明治23)年の『教育勅語』発布以降、義務化が強められ、西洋音楽的な整備が加えられたエッケルト版が定着します。昭和になると実質的な国歌として扱われました。

 

戦後は新たに国歌を作るという機運も現れますが維持され、正式には平成11(1999)年の「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)において制定されました。

 

やはり文部省による唱歌教育についても、一葉と関連づけて触れなければならないでしょう。

 

一葉は、転校を重ねながら明治10(1877)年、明治16(1883)年までの5年半、学校教育を受けています。

 

明治5年に国民の6歳以上の男女全員が義務教育化されます。約10年後に唱歌教育が整備され、明治14(1881)年に日本初の公式小学校唱歌集が発布されます。

 

当初は、やはり文明開花の時代に必要な、外国曲の和製化が多かったようです。親しみやすいがこれまでにない旋律に、かんたんな西洋古典音楽的和声がつけられます。

 

この第一集にも収められたのが、スコットランドの民謡「オールド・ラング・サイン」を元にした「蛍」(のちの「蛍の光」)です。

 

3曲が収められた小学校唱歌集の第1集には、現在も親しまれる歌は少ないです。最も知られるのが、海外に由来するこの曲であるというのは興味深いことです。その後も「お雇い外国人」とともに試行錯誤が重ねて洗練され、国家礼賛、軍事化的な曲も導入されます。先ほど書いたように、「君が代」もその一つであり、正式な導入に至るまで慎重なアレンジ改変が繰り返されています。

 

「蛍の光」のオリジナルのスコットランド民謡は、旧友との再会を喜び、酒を酌み交わす内容の歌ですが、日本では別れの曲として定着しています。閉店時間を知らせる曲は、アメリカ映画 「哀愁」(1940)で用いられたインスト曲として3拍子に編曲された「別れのワルツ」です。

 

【四曲の蛍歌について「ほたるこい」】

 

「お月さまはエライな」は、のちに述べる理由で、一葉の妹邦子がメインで歌う、オリジナルソングとして作曲しましたが、明治34年の「幼年唱歌」に収められる、作られた歌「お月様」です。

 

おつきさま、えらいな、

おひさまの、きょーだいで、

みかづきに、なったり、

まんまるに、なったり、

はる、なつ、あき、ふゆ、

にっぽんじゅーを、てらす。(納所弁次郎作曲、石原和三郎作詞)

 

旧来の唱歌歌詞は、子どもには意味が分かりにくい文語調でしたが、尋常1〜4年の初等教育用に、「キンタロー」など言文一致の曲が採用されました。世間と男に弄され、娼妓へと落ちてゆく八重を月にたとえて励ます曲として歌われますが、井上ひさしは少しだけ歌詞を改変しています。「エライ」とわざわざカタカナで書いていることや「日本国じゅう」と「国」を強調している点で、天皇の戦争責任を問うてきた井上ひさしの思想が現れているように思えます。

 

戯曲では、国や民衆を照らす存在として、光が重要なモチーフになっています。

 

そのほか星や、もちろん全体を通底する死者を迎える盆提灯や盆灯籠。

 

「花蛍」という幽霊をわざわざ登場させたように、死生を往復する蛍がはなつ微かな光こそが、重要です。

 

ゆえに登場人物による4曲の「蛍狩り」の歌い比べのシーンがもうけられています。最後に夏子(一葉)が歌うのが、よく知られた「正調」。

 

   ほう ほう ほたる こい

   あっちのみずは にがいぞ

   こっちのみずは あまいぞ

   ほう ほう ほたる こい

 

井上は「正調」とわざわざ書いておりますが、よく知られるこの歌詞が公式に定着するのはだいぶあとのようです。この歌は全国各地にある遊戯歌、農神歌としての由来があります。

 

戦時体制下の昭和16(1941)年に、国家総動員体制に教育を完全に組み込んだ制度改革「国民学校令」の公布 により、尋常小学校が国民学校へと変わります。それに応じてできた教科書「ウタノホン」に初めて加わりました。

 

従来の唱歌教育が、外国曲も多く導入していたのに対し、それらが控えられ、素朴な民謡的曲調が多く取り入れられたといいます。その際この「ほたるこい」は取り入れられました。

 

「正調」の前に、他3者の「ほたる」も歌われます。

 

音楽劇の戯曲として、この歌比べは、井上戯曲の精巧さがあらわれた秀逸な場面であり、私の作曲方針も明確に表現できた場面です。まさに、出自や社会的な立場を考慮してつくりました。

 

なかでも私は一葉の妹である邦子の歌唱こそを、物語のポイントとして重視しました。

 

戯曲のト書きに従えば、他の2人の歌唱は、母の多喜らにも喜ばれ、懐かしがられますが、邦子や正調を歌う夏子の歌は喜ばれません。

 

最後に夏子(一葉)が歌う、どこがで習い覚えた、かしこまった「正調」を「つまらなく」感じるのは庶民感情であり、妹の邦子が歌う「田舎風」を「夢のない」と感じるのは、下町とはいえ都暮らしの稔侍、とりわけ下級士族として没落してゆく人々の感情として理解できます。

 

邦子の歌を聞き終えた母は自嘲気味(その裏返しの意地のようにも思えます)に、出自の故郷について話し始めます。邦子が歌ったのは、父母から聞き覚えた故郷山梨の、野蛮風な田舎歌です。宇野もト書きに忠実に、歌謡性のある前2人の歌唱とは異なり、無伴奏で作曲しています。当たり前のことですが、暮らしとともにある歌に伴奏楽器はありません。

 

しかし私は一葉の妹である邦子の歌声に、母に田舎出の悲哀を語らせる以上の、役割を担わせてみたいと考えました。物語のネタバレになってしまうので、理由を書くのが難しいですが、この場面を含め邦子の「夢のない」旋律を、この舞台の歌の基調として響かせたいと思いました。

 

それらは、素朴な「野蛮」風ではなく、民謡、俗謡、唱歌、外国謡のいずれの風からも逸脱した、何風とも言えないような旋律です。

 

【一葉が女学校まで通っていたら】

 

先に述べたように、邦子がそのように歌う一方で、姉夏子(一葉)は、学校で「習い覚えた」風の「正調」を端正に歌おうとします。

 

一葉は「蛍の光」や「君が代」を学校で教わり、歌ったのでしょうか?唱歌教育と一様の通学歴を重ねると、それらを歌った可能性はありますが、記録にありません。

 

馴染みのない西洋の5音階旋律をどう歌ったのか。まだ制度が整備されず教えられず、伴奏楽器である足踏みオルガンがある学校、ない学校もまちまちであったようです。

 

「利発的な一葉にもっと勉強させたい父親と、「女に長く学問させることは先々のために良くない、針仕事や家事見習をさせる」という 母親の言い争いになり、母親の意見が勝って進学希望だった一葉は退学します。」(https://www5a.biglobe.ne.jp/~takeko/mamechishiki.htm#mame4)

 

女学校へ進級できずに学校教育を終えた、一葉はのちに、

 

「死ぬ計(ばかり)悲しかりしかど、学校は止めに なりにけり」

 

と日記に書いております。

 

確かめることは難しいですが、両方の可能性を考えながら、台本にはない「蛍の光」を、重要な場面のためにアレンジ(「君が代」は邦子のソロ「お月さまはエライな」のカデンツァの和音に潜めた)しました。

 

希望どおりに進級できていれば、もちろん別の人生があったでしょうし、反面、のちの作品群も生まれなかったことは想像がつきます。教養が芸術を妨げることもあるでしょう。

 

記録によると、戯曲では2歳年下の、妹くに(邦子)もまた、義務となる尋常小学校を修了したと考えられます。

 

一葉の日記からは、読み書き、算数、漢文など、家庭内教育を妹に施していたことがうかがえます。一葉の、学問や教養に対する、切実な執念と、子女への愛情が垣間見えます。

 

明治25年の記述ですから、一葉が19か20歳(戯曲上では21歳)。戯曲で妹の年齢は18、9、現在学説上では、4~6才年下であるとされます。実際は妹が義務教育を終えたばかりの、12,3歳かもしれません。日記の様子から憶測しても、18,9になる妹に教育する姿は考えにくく、そちらが正しく思えます。

 

戯曲では夏子は、吉原周辺の子たちにきちんと教育を受けさせたいと、「貧民」学校を作る夢を抱いています。

 

姉と母を支え続けた邦子は、「萩の舎」で令嬢に混ざって屈辱も受けながらも和歌を学んだ一葉ほどには、向学心がなかったかもしれません。戯曲の中で、唯一生者として生き残る邦子をこそ、和歌ではなく歌で、文芸ではなく音楽で、未知なる世に「夢のあるうた」を歌いながら自由に羽ばたくイメージで。

 

 

【軍歌「蛍の光」】

 

さて、最後に「蛍の光」歌詞の変遷や歌われなくなった箇所が、多少話題になっていますので、紹介します。

 

唱歌教育に取り入れられて以降、「蛍の光」には軍国主義的な歌詞が加わったり、削除されたりした歴史があります。

 

螢の光、窓の雪、

書(ふみ)読むむ月日、重ねつゝ、

何時しか年も、すぎの戸を、

開けてぞ今朝は、別れ行く(作詞 稲垣千穎)

 

こう歌い始め、通常歌われる2番までは、「蛍雪の功」と言われる中国の故事に由来します。

 

戦後に歌われなくなった3,4番の歌詞は、過日の参議院選挙で当選した、歌手でもあるという女性のYoutube動画でも、みることができます。その政治的主張を支持する人が、およろこびになっているようです。

 

3

筑紫の極み、陸の奥、

海山遠く、隔つとも、

その真心は、隔て無く、

一つに盡(つ)くせ、國の為。

4

千島の奧も、沖繩も、

八洲の内の、護りなり。

至らん國に、勳しく、

努めよ我が兄、恙無く

 

「蛍の光」が歌われるようになる3年前、「琉球処分」により、約450年続いた琉球王国が廃され、沖縄県が設置されます。千島列島は、1875年にロシアとの樺太・千島交換条約で日本領となりました。明治初期の案から「八洲(日本)の外」が「内」と変更されています。

 

「明治維新を遂げたばかりの新政府は、歌によって国民の一体化を図ろうとした。日本に組み込んだ沖縄と千島を日本の「うちの守り」と示し、国土防衛に努めよと男たちを鼓舞する内容だ。」(朝日新聞 2025年6月21日)

 

その後も日清戦争や日露戦争によって領土が拡張される度に、4番の歌詞は、文部省によって改変されています。

 

(日清戦争による台湾割譲)

千島の奥も 台湾も 八洲の内の 護りなり台湾の果ても 

(日露戦争後)

樺太も 八洲の内の 護りなり

 

さらに、太平洋戦下では、敵性音楽として自粛が促されました。昭和初期に、ドヴォルザークの「遠き山に日は落ちて」など数々の歌曲、ジャズ系のアメリカの曲「青空」「アラビヤの唄」と、外国曲を訳詞して広めたきた、作詞、作曲家の堀内敬三も戦時下の音楽文化のあるべき姿について、こう発言しています。

 

「『蛍の光』も『埴生の宿』も『庭の千草』も『幾年故郷』も『更けゆく秋の夜』も『夕空はれて』も、我々に永年親しまれたとは云へ敵の曲だ。そんなものに恋々として戦争はできない。家庭からも学校からも演奏会からも、有らゆる米英の曲は追ひだしてしまふ。それが音楽者としての戦争の手はじめだ。」

 

そういえば堀内敬三は、父の耳内に響いてしまう、慶應大学応援歌「若き血」の作曲者でもあります。

 

なお、朝鮮ではこのメロディが原曲歌詞を下敷きとして、抗日抵抗歌として広まり、讃美歌としても歌い継がれ、「愛国歌」となっています。「蛍の光」1、2番は中国の故事由来ですが、中国ではやはりスコットランドの原曲歌詞を元に歌われているそうです。歌はこうして国を越え、海を越え、ときに意味も変わります。

 

日本に限らず、私はこれまでも国民国家の成立する近世と近代の狭間に着目して、人と音楽の関係を探ってきました。

 

しかし、国民国家成立以前に植民地となった土地や、国家に吸収され存在を消されようとする民族もおります。むしろ私はこれまで、そのような史実に着目して「ユーラシアンオペラ」を創作してきました。

 

国家は、万人に一人一人の生に先立つものではない、という信念を創作に託して生き続けたいと思います。

 

3  おわりに  歌舞伎町にて

 

【歌舞伎町にて】

 

今回の創作にあたり、亡き祖父母とのささやかな歌の記憶と樋口一葉の来歴、井上ひさしの劇作をたよりに、あらためて幕末から維新あたりまで日本の音楽文化を遡りました。

 

たとえば歌舞伎、能といった芸能を、見せることを前提とした芸術より、歌いながら生きた人々の声や身体そのものに繋がっていたいのだと、あらためて思いました。もちろん、能や歌舞伎の原初もまた、そこにこそあるわけです。

 

音楽制作のために、今回の上演会場の、ホストクラブが運営する能舞台がある歌舞伎町で、夜の雑踏のサウンドスケープを収録しました。歌舞伎町のゴールデン街でのライブの帰りだったので、大きなコントラバスを抱えながら歩きました。

 

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小雨降る中、一葉が「たけくらべ」などで描いた吉原周辺の音風景を重ねながら、歩き続けました。欲情や消費を刺激するEDM系の、心拍の約2倍の強烈なビートと人工音声が、ほうぼうから耳を襲い、ぼったくりへの注意を促す新宿区や商店会の放送が、さらに猥雑でポリフォニックな音空間をつくります。

 

もう1時間もいたら耐えられなくなると知りつつ、スマホや部屋の中で聴く音楽よりも、生活することと不可分なここは、よほど人と音とが密着して活きづいていると感じました。

 

新宿駅の方まで出ると、やはりテンポ120くらいのバックトラックとともに、エレキベースとラップによる路上ライブに人々が集っていました。近寄ってしばらく見ていました。けっこういいなぁ、と思いました。

 

そこにいた海外からの観光客とおぼしき女性が、英語で話しかけてきました。

 

「これから一緒に演奏するんでしょ?」

 

私がコントラバスを担いでいたので、そう言ったのでしょう。思いもよりませんでしたが、それなりに酒も入っていた私は、雨が強まるのは気になりましたが、ああ、全然いけるな、という気持ちがよぎりました。しかし、なにより恥ずかしさがまさってしまい、小さく首を横に振りました。

 

少し悶々とした気分で、電車に乗りました。

 

その頃はまだ、準備だけで実際に歌の作曲に取り掛かる前でした。宇野誠一郎先生のような、長く愛されるような曲を、現在の私なりにチャレンジして書いてみよう、とも考えていました。

 

しかし、まだ都会の野生のポリフォニーを体内に残したていた私は、歌の旋律こそ当時の人々が歌っていたような、あるいは唱歌や軍歌以前の音階を基礎にしつつも、それとともに奏でる伴奏音は、その不協和の響きこそを再現したいと思いました。

 

戦に向かって高揚を促す軍歌や、簡単な西洋和音を使ってみんな揃って正しく歌える唱歌教育は、不協和音とポリフォニーを廃しました。

 

私にはそういう音楽は書けません。「一葉ソングス」の作曲方針がようやく固まりました。

 

◾️ おわりに

 

今夜もまた、父の耳には、「デカンショ」が「若き血」が鳴り響いているのだろうか。あるいは「新曲」だろうか。

 

父からは人生を展げ、形成するような音楽も含めたさまざまな情報をもらったし、学生の頃、童謡作家を一瞬目指したという冗談のような経歴から、近年亡くなった叔母である妹の部屋のピアノの黒鍵だけを持ちいて作ったという、オリジナルの歌を教えてくれたました。

 

歌うのが好きな母は、しょっちゅう何かを口ずさんでいます。文化的な教養を持つと言える父は、かえって演歌や歌謡曲を好んで聴いていました。いっぽう田舎育ちで高校を卒業しなかった母は、ああいうのは下品だと嫌い、古い童謡、唱歌や抒情歌ばかりを愛し、90歳を越えた現在も毎週コーラスに参加しています。

 

「先生に音楽学校への進学を勧められたけれど、お金もない。行きたくもなかったけれど、行ったらどうだったか」だの、「ものを欲しがったことは一度もなかったのに、学校に入る前の頃、ただ一度だけ三味線が欲しいとねだったら祖母にお尻をつねられた」だの、同じことを何度も言います。

 

そして、戯曲で母多喜や鑛が歌うように「世が世であれば」という言葉をいまもよく使います。おそらくは母というより、その上の世代の田舎の人々がよく使っていたのでしょう。

 

そんな母が演歌ではありませんが、「フォークソング」をテレビで聴きながら、これはなんか好きなのよね、と呟いたことがありました。珍しいなと思いましたが、それゆえに印象深くいまも覚えています。

 

1969(昭和44)年に発表された「風」です。

 

人は誰もただ一人 旅に出て

人は誰も故郷(ふるさと)を 振り返る

ちょっぴり寂しくて 振り返っても

そこにはただ風が 吹いているだけ

人は誰も人生に つまずいて

人は誰も夢破れ 振り返る(作詞 北山修 作曲 端田宣彦)

  

むろん有名なこの歌は私も知っていましたが、とりわけ好きな曲というわけではありませんでした。

 

父の耳内に響く「デカンショ」もこの「風」も、祖父母が口ずさんだ歌の断片もまた、私の身体から消えることはありません。ささやかながら、これもまた、歌の伝承の一形態だといえるのかもしれません。

 

私には子供もおりませんし、私の身体の中にある歌はどのように伝わるのだろう。そんなことをふと思いながら、稽古場へと向かいます。俳優の皆さんが、私の「夢のない」難曲を苦労しながら歌ってくださります。

 

振り返ると、祖父母、父母含め、よく歌っていた家族はみな女性です。外の職場で歌うわけにもいかないでしょう。戦後の第三次産業的社会、日本の都市生活において、とくに男たちに、暮らしの中で歌を歌うことを忘れさせる社会だったのだ、と思います。そしてそれもまた、近代国家の成立にも起因するのでしょう。

 

とことんやれ とことんやれな

 

復員したばかりの農村の若い男たちの歌声が私のからだを巡ります。

 

世の行く末わからぬまま、得体の知れぬなにかを発散するように、太鼓を打ち鳴らしながら歌った戦の歌が。(2025年11月)


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