沖縄フィールドワーク
2024年1月
〜極私的原風景と重ねながら〜
【序章】 東アジア海洋文明への眼差し
はじめに〜新作ユーラシアンオペラに向けて
第一章【沖縄本島篇】
1.御嶽を訪ねて-沖縄と済州島 2.海岸で遭ったユタ 3.私のシャマニズム 4.霊性を求めず 5.原風景-私と沖縄
第二章【与那国島篇】
1.日本最西端の島どぅなん 2.古謡を求めて〜3.「死者の都」の葬礼歌
第三章【極私的原風景 1980埼玉】
1.与那国の朝・精霊の記憶 2.Yの場合 3.Nの場合 4.西表を眺めながら
第四章【石垣島篇】
1. 八重山に聴く 2.三世代の歌
【終章】精霊と子どもたち
慰霊塔にて〜精霊と子どもたち〜来訪神と守り神
序章&第一章【沖縄本島篇】
序章【東アジア海洋文明への眼差し】
【はじめに】
年明に創作フィールドワークのため沖縄の島を巡った。与那国島で明け方の散策中、沖縄方面に出自を持つ二人の幼友達との思い出がふと甦ってきた。
1980年代半ばの小学生時代の友だ。その後の旅中では、彼らの記憶と目の前の景色とが、2枚の薄い透布のように、風に揺れて重なった。
与那国では、何かを懐かしがる胸の奥底で感じた。那覇の公設市場でも、南城の御嶽でも、石垣でもなく、その地でYとNのことを思い出したのはそれ故だろう。
その極私的な原点への追想と併せ、旅の報告を記したい。30年近くの創作活動の中では、琉球文化との直接的な関わりは少なく、自らそこに赴くのも初めてのことだ。
【新作ユーラシアンオペラに向けて】
主宰する音楽詩劇研究所のユーラシアンオペラ四作目となる新作では、国民国家の枠を超えた文化の祖型を、東アジア海洋文明をテーマに求める。
その十字路の要に位置する黒潮の島々を、韓国の済州島から沖縄、八重山、先島、台湾と南下し、各地の基層文化に通底する死生観や他郷観を探りながら創作する。上演では、南国から旅立った少女の物語が、逆に北上して展開する予定だ。
昨年8月に済州島に、海女、巫覡に由来する民謡文化や四・三事件の痕跡を訪ね、今回はそれをふまえた短い旅だ。4月には、原住民族文化に焦点をあてた台湾滞在も予定している。
古琉球を遡って日本文化の源流として仮説することは、民俗学者や文学者により長い間研究され続けている。国家形成の過程における文化伝搬と逆行した連続性に、私も惹かれる。いっぽうで、琉球文化を「日本文化」の中に回収せず、その独自性を点として捉える必要もある。
その琉球にしても、王朝のあった本島からみて離島地域には、本来それぞれの点、原点があるはずだ。いずれ、一国家からではなく、その視点を東アジアの海洋文化に広めることこそ、この旅の目的だ。
那覇に二泊して本島南部の御嶽などを訪ねたあと、与那国、石垣で民謡、遺跡、資料館を訪ね、那覇に戻って、美術家や劇場・テレビ関係者とのミーティングを行った。1/3~9の短い期間、済州島民俗文化の研究者であり、作曲家のチョン・ウォンキ、プロデューサーの渡辺真也とともに、足早に移動し続けた。
第一章【沖縄本島篇】
【御嶽を訪ねて-沖縄と済州島】
本島ではまず、済州島と琉球の祭祀やシャマニズムの共通性に的を絞って御嶽を巡った。
大樹や崖を神の依代とする琉球の御嶽は、元来、社殿を置く必要がなかった。明治維新以降の皇民化政策によって、御嶽の前に鳥居が建立されるようになった。
民俗学者の岡谷公二は、日本の古神道も、元来の御嶽のように聖堂をもたなかったとし、その始原の姿をさらに済州島に求めて論考した。
巫俗(クッ)を行う済州島の堂(ダン)は、社を持たぬまま森や海岸に残存する。島には流刑地として次々に半島の文化、流儀が流入した。だが賤卑とされた巫俗には、権威性を誇る社殿を置く文化は及ばなかった。そうして離島の独自性が、言語、祭祀、芸能の中に、ある程度保たれてきた。
再建中の首里城から南東へと下りながら、ニライカナイから渡来してこの地を創生した、女神アマミキヨにまつわる14の御嶽を訪ねた。祖先神を祀る足元の聖石を拝み、祭司ノロが謡い唱えて舞う。神女ノロの長を仰せられた代々の聞得王君(きこえのおおぎみ)が即位儀礼を行った、有名な斎場(せーふぁ)御嶽も含まれる。
この東御廻り(あがりうまい)を辿る道は、聖地めぐりとして観光化されているコースだ。だが案内を依頼した高野純一さんいわく、現地の人々にはそれ程認知されていないそうだ。同行の渡辺氏の友人で、琉球民謡DJ,研究家の方が我々の旅の意を汲んで高野さんを推薦してくれた。
【海岸で遭ったユタ】
テダ御川(うっかー)は、太陽(タデ)神が降臨した地と言われ、久高島への安全な渡海をノロが祈念した御嶽だ。
それがある海岸に出ると、岩場の方で、石の前に跪いた黒衣を纏った女が小声で呟きつづけ、初老の女性の一団が、すがるようにそれを見守っていた。私たちは現代のユタと遭遇した。
神事を司るノロは公認された存在だが、ユタは民間の女シャマンといえる。
チョン・ウォンキ氏は、済州島の神房との類似性を求め、ユタとの出会いを求めていた。高野さんは、那覇の公設市場にでも行けば、ユタを案内する広告がたくさんありますよ、まぁけっこうお金はかかりますが、と付け加えて答えていた。
スナックのチーママ風情のその女が起き上がると、少し離れたところに立っていた若い大男が、彼女の腕を引き、足早に立ち去ろうとする。高野さんは、あの人たちがユタですと私たちに囁いた。
同行の渡辺氏が彼女らを引き止めて何かを尋ねようとするが、男がその手を払うように、あちらに聞けと、帰り支度を始めた一団を指差した。現代のシャマンはそのまま遠ざかって消えた。
【シャマニズムとの出会い】
私のシャマニズムとの出会いは学生の頃、東京の小ホールで観た韓国の巫楽だった。死者の霊魂を洗う珍島のシッキムクッの一部だ。それまで体験してきたあらゆる音楽や舞踊の体系とは異なる、白衣に包まれた老女の一挙一動を、心身が吸い寄せられるように見た。
当時付き合った兵庫出身の彼女の母方の祖母は、奄美のユタかノロの出自だと聞いた。自ら制御できないような情動が、その出自に起因するのではないかと、とどどき彼女は言った。だがその話をされることがむしろ嫌であった。痛切な現実を語る彼女の言葉にたいし、同意して返答することもできず、胸の内に留保するのみなかった。
あくまでシャマニズムは音楽的現象として留めておきたいと、私は無意識に思っていたのだろう。仮にそれを求めようとも、無神論者ともいえる自分が、実体のない霊性を意識することはできない。
そもそも、その源泉たるアニミズム的自然観が日常にない。にもかかわらず私は、都市生活で希薄になった死生観の回復を求め、古来のシャマニズムの出自や感性を持つユーラシアのアーチストと共演し続けてきた。
【霊性を求めず】
御嶽の樹林や岩々の隙間の先に広がる水平線のもっと向こうに、人々が希求した他郷をぼんやりと感じる。ニラカナイ、他の語へ翻訳しがたい語だ。私はその意味を日本語で知るより他ない。
ただそこに佇んでいると、意味など知らずとも、いつか自分の身体が、海の彼方向に吸い込まれてゆくように、思われてくるのだ。だがやはり私は、そこに神性や霊性を感知しているわけではない。
高野さんの言葉に得心した。御嶽の信仰とは、足元の地面を見つめ続けることだと説明してくれた。その後ろの正面に厳かに聳える、神の依代である樹木や岩石は、祈念の対象ではない。そこに通い、前にしゃがんで視線を落とし、変化し続ける自然、足元の現在を見ることだ。
そこでふと上方の依代に視線を移すと、「私自身」が神であることに気づくのだ。それが御嶽の本質だと仰った。
飛躍的な説にも思える。しかし、地への微かなる眼差しは、祈願から遡った信仰の根源のように思えた。実存(私)は本質(神)に先立つという無神論的信仰と、換言できるかもしれない。
霊性を纒う草木も岩も都市には存在しない。だが依代となるそれらを頼らずとも、舗石の裂け目にだって、地と対話するミクロな眼差しは持ちうる。
那覇に戻って夜の市街を歩きながら、霊性や神性など、あらためて求めるものではない、そんな風に思えた。沖縄にそれらを求め、それをこの地で実感しなくてはならぬのだと、私は無意識に思い込んでいたようだ。
人々の情動や社会や自然の、美しさと矛盾や不条理とを、出来うる限りこの眼に焼きつけよう。
【原風景-私と沖縄】
自身の原点と土地とが響きあったとき、ようやく音楽は生まれる。だが、土地に交感する自身の原体験のようなものがなければ、風景は過ぎてゆくままだ。そうするとこの旅も、知識や情報を得るだけの、文字通り調査やリサーチに終わってしまう。それらを繋ぎ合わせ、組み合わせて作曲しても、何の意味もない。
那覇のビジネスホテルのベッドに横になって、あらためて私自身の沖縄との関わりを、思い返した。
音楽活動を始めた大学生時代の1990年代半ば、都心では沖縄料理屋もよく見かけるようになり、関心を深めれば琉球はむしろ身近だった。それまで知られてきた一面的な琉球を、よりローカルに深く掘り下げて紹介する映画やCDを、私も親しんで好んだ。
沖縄民謡とは異なる日本民謡的な律旋法に近い旋律を、独特のコブシを用いて歌う、奄美の島唄には特に惹かれた。
思想、文芸の領域においても、戦争体験や基地問題等の当事者性による切なる肉声は薄れ、その根源にある支配や差別の構造が、多文化越境的なグローバルな視座で語られていた。文化人類学やポストコロニアリスム的な着眼である。
闇としてしか語り得なかった土地に、新たな角度で光を当て、その明るい文脈の中に、民謡やシャーマニズムも言及された。
私もそうした言説に惹かれつつ、いっぽうで引きずられてゆくのを少しおそれていた。そもそも、創作や生の根拠を真っ直ぐに求めた10~20代の模索期に、文章や音源、映像ばかりを拠り所に、ある土地ある時代を特定して向き合う気にはなれなかった。
さまざまに語られた琉球の地は、とりわけ吸引力が強く、それゆえ逆に遠のいた。私にとって例外は韓国だったが、それは自己同一化するほど心酔した楽器の師匠の紹介によるところが大きい。韓国そのもの、というより、師に強く影響を与えたその伝統音楽に、私も近づきたかった。
今回のようなあらかじめ目的のある旅を、私は好まない。土地や人との意図のない出会いこそが、創作の根拠を深めるからだ。たとえば、その師とたまたま出会わなければ、そもそも韓国の音楽とも縁がなかったように思う。だが出会いの遠因を自らのうちに遡ってゆくと、やがて原点となる微かな記憶に辿り着く。
小学生3、4年の頃、学級文庫にあった「はだしのゲン」に出てきた登場人物の、漢字一文字の苗字を不思議に思った。父に尋ねてその故を知った、「在日」という存在が隣国への意識の始まりだった。
いわば、漫画の一コマに描かれた広島が、私の韓国・朝鮮の原風景と言えるのだ。また、戦争、原爆、差別の真実を語るための過激な描写を含むその本が、当然のように学校の教室に置かれていた時代や環境も、その風景をなす背後にある。
中学生の頃、芸能ルポライターの竹中労が監修した琉球音楽を特集した一冊の雑誌に出会い、日本や欧米以外への関心が広がった。
それまで音楽とは、ブラウン管やスピーカーの中、舞台や教室にあるのだと思っていた。それらとは違う、もっと根源的な歌の在所と、それを生む磁場を感じた。
路地や寂れた漁村の船着場で、「被写体」となって風景と同化するように佇む、老若男女の唄者たちのカラー写真を見て、不思議と懐かしさを感じた。写真から音や声もすでにざわめいていた。
それが、私の沖縄との出会いである。しかし、たかだか中学生の私に郷愁を覚えさせる、さらなる原点が、私の中にあるはずである。
それは、書物や写真や音源にあるのではなく、極私的体験の中に潜在する記憶であるに違いない。それが目前の風景と重なり合うとき、音楽の断片が私の中に立ち現れ、聴こえてくるはずだ。
それを感じたのは与那国島だった。朝早い便で那覇空港を発ち、このあと述べる濃密な1日を過ごした翌朝のことだ。